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月夜の幻聴
……辺り一面、砂しか見えず。
ひと足ごとに沈む砂靴をしゃくりしゃくりと抜きつつ進む。
しかして進めども進めども、ふと顔上げれば先ごろと異なるさまは毫もなし。凪いだ海のごとくに広がる砂にひたすら溺る。
遠方の砂山は崩れざる波に似て、ただ白く月の影を返すばかりなり。
劉国に育つ者ならば一度は耳にする物語の一節だ。
西の国から伝わる話ゆえ、劉国でも西方に生まれ育った王廼宇……いや、今は曹徳扇の養子となりて曹廼宇、には幼き日からの寝物語として大変馴染がある。
黄金の館や空飛ぶ絨毯、そして魔術を操る英雄たちなど、目の回るほどの不可思議に満ちた話の数々は、子供たちに夢や憧れを育む格好の材なのだ。
「今日のうちには砂漠に入るとのことでしたが、なかなか遠いものですね」
横を行く黄暫に聞こえる程度に発語した。まだ黙行の令は出ていない。
「いや? 既に砂漠だぞ」
「えっ」
周りを見れば、確かに水気はなさそうだ。しかし仄かに月明かりを返す白土に、草の塊が黒く点々と散らばっている。砂地ではあるが深さはなく、馬が歩くに難儀なほどではない。
「ああ~、あれか。辺り一面砂しか見えず、って思ってたのか。南方にはそんな場所もあるんだが、皇子殿下には辛かろうとて馬で進める方角の敵地にしているのだ。今宵は細いがいい月だから、馬体も見えて気が休まろう」
そうですか、と見上げれば、半月より少し痩せている。
雲ひとつなき漆黒に輝きながらも、細身のゆえに星々の微光の邪魔をせず。よって数多の星芒をその周囲まで従える。……広き天空の丸ごと全てが、美しい。
『ちっ』
陶然とする耳元にて暁士に舌打ちをされた気がした。
……いや、幻聴だ。
……幻聴、というより出立の前の記憶である。
『……俺と見るべき砂漠の月を、黄暫とでも見るんだろうよ』
全くの新人である廼宇など、何ひとつ己で決めることはない。全てが隊長なり先達方の下命通りになるだけなのに、なぜか責められたのだった。
本当に、面倒なお人なのだ。
だが、月の話など可愛いもの。
……お前は第二皇子の顔でも拝んで、砂漠の旅と野営暮らしを楽しめばよい……。
さように呑気な言を吐いていた暁士の態度が突然危うくなったのは、北大都出立の十日ほど前のことだった。
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