1 新人捜査官

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1 新人捜査官

 アーサー・スチュアートはその日、朝から一瞬たりとも息を抜く暇がなかった。  目まぐるしいと言う他ない一日だ。一ヶ月前、急に仕事環境が激変してから毎日がさながら滝のようだ、と思っていたが、今となってはそれも、水道から漏れ出す水程度だったと思える。  やっと日中勤務に慣れた身体が睡眠を貪っている早朝に、携帯電話にたたき起こされた。三か月前に長年付き合ってきた女性と別れてから、アーサーの携帯を鳴らすのは仕事の用件ばかりだ。  新しい上司は優雅に早朝の無礼を詫びた後に、すぐに着替えてダウンタウンの九分署に行くようにと命じた。  イースト川横のイーストヴィレッジを管轄する分署だ。ローワーイーストはまだ治安の悪さを残すが、イーストヴィレッジはすっかり街が整備され、新しいカフェやレストランも多い。普段はセントラルパーク付近に居る事が多いアーサーは、あまり馴染みのない区域だった。  言われるがまま、寝癖もそのままに走り、到着したその先では年端もいかぬ少年が事情聴取を受けているところだった。  彼は事件の第一発見者だった。  新聞配達の途中、野良犬が家の軒先を掘っていた。最初は見なかった振りをした。たかが野良犬と侮ってはいけない。下手に刺激して襲われても困る。  しかしその横を通りすぎるときに、なんとなしに覗いた、その土の中に――大量の骨を見てしまった。  少年は知らなかった。その家の主がレストランに勤めるシェフだということも、彼の人の得意料理が肉料理だということも、知らなかった。だからこそ仰天した彼は、すぐさま九分署の刑事に通報した。  そして早朝勤務の巡査は採用されたばかりの新人と、土地勘のない転勤者で、彼らもまた件の家の主が料理人であることを知らなかった。  その為、『あの家の住人は料理人だから、庭に埋まっているのは豚か牛の骨に違いない』という近隣住民の暗黙の推測を彼らは無視する形となり、結果、その骨が豚でも牛でもない事が発覚した。  庭に埋められていたのは人骨だった。  家主の料理人、ダドリー・クーパーは一週間も前から失踪していた。天涯孤独で独身であるダドリーの捜索願は出されていなかった。  渋い顔をした分署長と担当刑事から聞きだせた話はこの程度だったが、それでも叩き出されないだけマシだった。  まだ数える程しか事件現場を訪れていないアーサーも、都度、自分が歓迎されていないことはわかっていた。一応ニューヨーク市警に所属しているのだが、三十歳手前と年が若く、見るからに場馴れしていないアーサーは不審に思われても仕方がない。  少年の事情聴取にどうにか同席させてもらい、所定の手順を踏み質問と録音を終えると、資料を持って走った。途中でタクシーを拾い、やはり自転車か自動車を買うべきかと息を吐く。  FBI所属の秘密機関『キャメロット』は、ごく普通の古い建物の中にある。外観はうらぶれた寄宿舎の様だが、その入り口には厳重な警備態勢が敷かれていた。強固なセキュリティと指紋認証チェックを抜け、飴色に磨かれた床を走る勢いで歩く。  まだ早朝ともいえる時間だというのに、すでに何人かの職員は出勤しているようだった。恐らく自分と同じように、レディの電話に起こされたのだろう。  エントランスを抜けて細い廊下に入ると、欠伸を噛み殺した男がアーサーに片手をあげた。 「よお、『ハーフ』! お前も朝から叩き起こされた口か」  屈託なく掛けられた言葉に、思わず眉が寄る。普段なら笑顔を絶やさない柔和なアーサーも、今朝から走りまわっていたせいで余裕が無い。 「おはようございます、ハング。その呼び方やめてもらえませんか本当に……」 「FBIと市警察のアイノコなんて珍しいモノ、他にはいないだろ。レディにもらうあだ名が『ハーフ』にならないように祈るんだな、新米」  まあ、俺はハーフに賭けているけど、と軽やかに笑った彼の本名をアーサーは知らない。この機関内では誰しもが簡単なあだ名で呼び合い、お互いを認識していた。  なぜそのような習慣になったのかはわからない。秘密機関のようにコードネームが必要なのかと問えば、そんなことも無いらしく本名を隠す必要もないと言われた。  レディの気まぐれなお遊びさ、と皆は笑うが、今のところ「半人前」か「ハーフ」かどちらのあだ名になるかと言われているアーサーとしては、気が気ではない。アーサーの呼び名が何になるか、賭けまで始まっていた。  気軽に声をかけてもらえるのはありがたい。ぎすぎすとした空気の分署から帰ってきた身としては、愛情をもったジョークで挨拶を交わしてくれるキャメロット職員たちに感謝している。からかわれるのも愛情だ。  が、あまりにも屈辱的な名前になったらどう抗議したらいいのか……朝一番に優雅かつ威厳を持った言葉でアーサーをたたき起こしたレディの声を思い出しながら、長い廊下を早足で通り過ぎ、指定されたガラス張りの部屋にたどり着いた。
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