2 魔法使い

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 なめらかに動く魚のような人間は、いつ見ても映画のCGのようだ。不思議な光景に、つい見とれてしまうが、頭を切り替え、懐からボイスレコーダーを取り出した。  アーサーがキャメロットに配置され、最初に渡され徹底的に取り扱い方法をたたき込まれたものは、銃でも防弾チョッキでもない。それは、キャメロット、しいては魔法使い専用の高性能ボイスレコーダーだった。  これが、君と魔法使いの武器だ。そう言われ渡された小さなレコーダーはタブレット式で、驚くほどにクリアに世界の音を拾う。  イムルスの魔法は、アーサーが想像していたものよりも数段地味なものだった。  彼はとても耳が良い。  レディにそう紹介されたとき、あまりにも地味なその特殊能力よりも外見の方にばかり意識してしまったのは、仕方のないことだろう。魔法など使えなくても、イムルスの明らかに人間ではない見た目は、それだけで随分と衝撃的だ。  しかし、いざイムルスと対話すると、彼の聴力の異常さを実感することになる。 「君はいつも、この部屋に入る時に緊張してしまうね。心音がとても早い。それに、昨日は少しお酒を飲んだ? いつもより喉の調子が悪いみたいだ。アルコールを飲んで、声を張り上げた後のかすれた声だね。とても騒がしいところで喋ったのかな」  すべて当たっていて、アーサーは思わず息をのむ。  半歩ほど引きそうになった体をどうにか押しとどめた彼を見やり、イムルスは顔を半分ほどバスタブに潜らせた。 「……ごめんよ、君のことを詮索しようとしたわけじゃないんだ。ただ、進んで飲酒をしてストレスを発散しなくてはいけないような、そんな心の疲れの元がもし私だったなら、と、少し弱気になってしまっただけなんだよ」 「いえ、あの……昨日は、元同僚に誘われて、ダイナーでビールを飲んだだけなので。結婚の報告でした。もちろん、新しい仕事にストレスを感じない、とは言いませんが、誰かに大声で愚痴る程の悪環境だとは思っていません」  言い訳のようだが、本心と事実だ。声の調子や、果ては心音まで聞こえるイムルスに、嘘は通用しない。偽れば偽るだけ、アーサーの人物像が怪しくなるだけだ。  先ほどのミセスの言葉が頭をよぎる。 『彼の前で誠実を作る努力はやめろ。魔法使いはすべてを見抜く』  まさに、その通りだ。だからこそ、偽りのない言葉を選ばなければならない。この部屋に入り、なめらかな光沢の魔法使いと言葉を交わす時は、リラックスという言葉を忘れた。  ただ、今日は朝から休息などとは無縁だ。一刻も早く事件の全貌を明るみにし、被害者を特定し、犯人を絞りこみたい。その為に走るアーサーは、リラックスなどしている場合ではなかった。 「朝から、大変だったことだろうね。さあ、それじゃあ早めに、私の仕事を片づけてしまおう。だいたいのことはレディから聞いている。私がまず聴かなくていけないのは、第一発見者の少年の証言。そして、行方不明のシェフの仕事仲間達の証言だね」 「はい。事前訓練の通り、質問を五分以内の録音に納めました。第一発見者の少年、レストランのオーナー、チーフシェフ、同僚シェフ、パートの女性の順に再生します。俺は席を外した方がいいですか?」  イムルスの耳は、アーサーの心音すら拾ってしまう。録音テープを再生するにあたり、自分の存在は邪魔ではないか、と気を使っただけだが、当の魚は柔らかく首を振った。 「そこにいて平気さ、アート。君の生きる音は、私にとっては心地よいものだよ。雑音などではない。録音を聞く度に退室するのは手間がかかるだろう。扉の番人たちは、イヤでも毎回のチェックを怠れないしね」  確かに、もう一度レジーのボディチェックを受けてケヴィンの前口上を聞くのも時間の無駄だ。  イムルスの言葉を信じることにしたアーサーは、手元のレコーダーの再生ボタンを順に押した。  きちんと録音毎に整理出来、フォルダに分けることもできる録音機から最初に流れたのは少年の声だった。  実際に目にした彼は、ひどく興奮していた。もっと茫然自失としているかと思ったが、幼い少年は人が死に骨になって見つかったことより、大ニュースに関わったことの方が一大事なのだろう。  自分の家族や知人が命を落とした事がない者は、誰かの死に誰かが泣くという事に実感がもてない。それは仕方のないことだ。経験していないことは想像する事も難しい。  興奮する少年の証言は、特別不審な事もなかった。事件発覚の概要は調書にまとまっているとおりだ。  朝何時に出発したか。何時にダドリー・クーパーの家にさしかかったか。そこまでは分署の刑事の質問だ。  その後にアーサーが彼に聞いた十項目が、魔法使いには必要なのだと聞いた。質問を読みながら、アーサーはイムルスという存在に少々の恐怖を感じた。  それは、『魔法使いの質問』と呼ばれる定型の質問事項だった。  宗教を信じるか。家族を愛しているか。正義は存在するか。そんな、まるで心理テストのような簡素な質問が並ぶ。  何も知らなければ、人間性を伺うテストかと思うだろう。しかし、音から極度の緊張や嘘すら見抜いてしまうイムルスには、これは人間の性格と生活をある程度限定してしまう質問になった。  第一発見者の少年の録音を聴き終えたイムルスは、思案するような間の後に彼の考えを述べた。 「……とても興奮していて、すこし、聞き取りにくいね。でも、興奮は本物だ。降ってわいた驚きの事件に、彼はとてもわくわくしている。少なくとも仕組まれた第一発見者ではない。声の上ずりがひどい。何度も同じ話を繰り返しているから、質問への反射も早いね。これは、箝口令を敷いても、無理かもしれない。内緒だよ、という連鎖は結局秘密を守らない」  それは、アーサーも同じく感じていたことだった。  もう世間にはダドリーが行方をくらまし、彼の家から人骨が見つかった事を知っているだろう。 「この子は、そうだね、少し落ち着いてもらった方がいいかもしれない。家族の愛への質問に、ほんの少し戸惑った。きっと、親が厳しいか愛されていないか、それとも彼の方が愛していないか。申し訳ないが、あまり仲のよくない保護者に協力してもらって、少しだけ興奮を納めたほううがいい。彼のテンションを下げるだけでも、随分と事態は落ちつくと思うよ」 「……わかりました。九分署の刑事に連絡しておきます」 「ありがとう、アート。彼には少し辛い思いをさせてしまうかもしれないけれど、今必要なのは冷静な捜査であって、周囲の野次馬ではないからね」  本当に魔法のようだ。本人を目の前にしたわけでもないのに、彼は感情すらも音で見抜く。  声の調子、呼吸の乱れ、そして心音、環境音。ただ、それが聞こえているだけではない。イムルスの記憶力と洞察力は凄まじい。  水の中にたゆたうイムルスは、さあ次の証言を、と先を促した。  次に流れたのは、レストランの従業員達の録音データだった。まずはオーナー。次に主任。そして同僚達の音声が再生される。  ダドリーは八日前に無断欠勤をしたまま、レストランに顔を出すことはなかった。ただ、その前の日がレストランの休業日だったため、実際に彼の消息がいつ途絶えのか、はっきりしない。  同僚が彼の無断欠勤を主任に報告したのが、欠勤当日の昼過ぎのこと。そしてそれをオーナーが知ったのは二日後だったと、決まり悪そうな顔で全員が答えた。  普段から急に休んだりする事が多かった為、気にしなかった。ダドリーがいなくなっても、レストランは問題なく運営できる。クリスマス前のこの時期は忙しくて、とてもじゃないが心配をしている暇はなかったと皆口を揃えた。  多忙な時期に無断欠勤など。と、呆れて彼を避難する雰囲気があった。欠勤四日目にはもう、雇用契約を切る事を考えた。家に赴いて安否を確認しようなどとは思いもしなかった。主任もオーナーも、このような事を語った。  実際に質問をしたアーサーには、特別気になるような言葉はなかった。  ダドリーは良くも悪くも凡人だった。少しばかり他人よりも劣っていたような印象は受けるが、どんくさい、と笑って流せる程度のものだろう。ただ、人付き合いは苦手だったのかもしれない。それはダドリーの性格のせいなのか、それとも忙しいレストランという職業柄なのかわかない。  少しばかり愚鈍だが、真面目で特別な才能はない。  ダドリー・クーパーに寄せる人間性の証言の印象はこの程度だ。  感想を挟むことなく最後まで聞き終えたイムルスは、しばらくの沈黙の後、滑らかな曲線を描く顎に指を当て水面を眺めた。
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