1176人が本棚に入れています
本棚に追加
「春夏冬くん、何かいい事でもあったの?」
「えっ?別に… 何でですか?」
藤井さんにいきなりそんな風に訊かれて、戸惑いが態度に出てしまった。
「何か、前と比べると明るくなったな、と思ってさ」
え?明るい?俺が?
「あ、前と比べてだよ、明るい人って訳じゃないから」
長い菜箸でおでんの具をひっくり返しながら鍋をつついている。
別にそこまでわざわざ言わなくてもいいじゃないか、と思って横目で軽く睨んだが、少し浮かれ気味の自分には気付いていた。
浮かれるな、コンサートに誘われた事に意味はない筈だ。
知り合いの人が出るコンサートと言っていたから、誉さんも行かなきゃなんだろうし、日がバレンタインだから、下手に誰かを誘えないんだ、きっと。
コンサートの題名で誤解だってされるだろう、現に俺が誤解しそうだ。
『バレンタインコンサート〜愛する人へ贈る曲〜』
俺なら差し障りがないだけだ。
だから、勘違いをするな。
それほど大きくない、六百人位が入れる会場だったけど建物が綺麗で目を奪われた。チケットは完売のようで会場内は人が沢山いて、カップルではない人の方が多かった気がする。
貰ったチケットの座席番号を見て、座席表で場所を探した。
いなかったらどうしよう… 。
ふと不安が過ぎったけれど、とりあえず場内へ入って席を探す。
すぐに分かった。
そこだけ空気が違って輝いていて、座席から飛び出た後頭部さえも綺麗だった。
急に心臓の鼓動が激しくなって、何て挨拶をすればいいのか戸惑い、あまりの緊張に一旦会場の外に出てしまう。
すーはーすーはー、と深呼吸をして息を整えた。
駄目だ、行けない、などと此の期に及んで尻込みをして動けない。
「知秋ちゃん」
え?
振り返ると誉さん。
何てカッコいいんだ、黒のタートルネックのニットに黒のパンツ、それだけなのに凄く格好がいい。耳たぶにはキラリと小さくピアスが光る。日によって石の色が違うし、リングピアスをしている時もある。今日は黒石の中にダイヤだろうか、キラキラと輝いている。
「あ、こんにちは… いえ、こんばんは」
こんな挨拶しかできない自分が憎らしい。
「知秋ちゃんのユニフォーム以外の服、初めてだ」
ほわほわした笑顔で俺を見る、やめて欲しい、心臓が破ける。
「コート、クロークに預けた方がいい」
会場に入ってすぐに暑くて脱いだ、腕に掛けているコートを見て誉さんが微笑んだ。
「おいで」
俺のコートを静かに奪うと、背中を見せて顔だけ少し振り向いて手招きをする。長い足の一歩が大きくて、歩く度に揺れる髪が綺麗で見惚れた。
ふと見ると、周りの人も誉さんを見ている。中には指を差している人もいた。
そうか、クラシックが好きな人なら、チェロ奏者の誉さんの事を知っている人がいてもおかしくない。
その誉さんと一緒にクラシックコンサート、気後れがするようで、それでいて何処か得意気な気持ちにもなっていて胸がソワソワ、ザワザワとくすぐったかった。
「来てくれて良かった、嬉しいよ」
クロークにコートを預けると、俺の背に手を当て誘導するように歩きながら、誉さんが嬉しそうに笑顔で言った。
「あ、少し興味があったので… 」
ボソボソと話した。
本当のところ、クラシックとは無縁の人生だったから、ほとんど知らないけど今日の為に少し予習はしてきた。
「本当にっ!?嬉しいなぁ〜知秋ちゃんがクラシックに興味あるなんて!」
ほら、奥に座りな、と手を差し出してニコニコの笑顔が眩しい。
「クラシックだけど、今日のは割と知ってる曲が多いと思う、楽しめるといいけど」
「はい… 」
座ると誉さんの腕が俺の腕に触れそうでドキドキした。
開演前のブザーが鳴り、ちょっと緊張した時に耳元に誉さんが近付く。
「ヴァイオリン奏者、今日は赤のドレスって言ってたかな?それが知り合い」
そう囁かれて少し息がかかり、更に緊張したけど…
ドレスか… 知り合いって女の人なんだと、少し… いやかなり悄気た。
最初のコメントを投稿しよう!