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私は今。
人生最大のピンチを迎えていた。
【恋愛方程式】
数日前に行われた数学のミニテスト。
返された答案用紙には、過去最低の点数が記されていた。
……これはマズい。
お父さんとお母さんに言えない。
成績低迷の原因。
思い当たることはたくさんあった。
喫茶店の手伝いで時間が無いし。
疲れて夜は早く寝てしまったり。
及川さんのことが気になったり。
元々、勉強は得意じゃないけど。
それでも以前は真ん中より少し上くらいの成績だった。
このまま成績が落ちたら、きっと自宅に帰される。
及川さんと一緒に居られなくなる。
そんなの、耐えられない。
◆
「数学を……?」
「はい。教えてください」
夕食の後。3人揃ってリビングのソファで寛ぐのが恒例で。
私は隣に座る及川さんに家庭教師をお願いした。
何でも出来る及川さんだから、きっと勉強も出来るし教え方も上手いはず。
そして勉強を口実に一緒に居られる。
ワクワクしてる私を見て、及川さんは困った顔をした。
……何で?
「私は、どちらかと言うと体育会系で。勉強なら柳の方が得意ですよ。国立大卒ですし」
「そうなんですか」
「柳に教えて貰った方がいいと思います」
意外だった。及川さんも不得意なことがあるんだ。
私は柳さんに向き直って頭を下げる。
「柳さん。お願いします」
「別に構わねーけど」
「ありがとうございます!」
「じゃ、俺の部屋で」
「柳さんの?」
一緒に暮らして3ヶ月経ったけど、柳さんの部屋には入ったことがない。
仕事の話をする場所だから私は入れて貰えないと思ってた。
「いいんですか?」
「ココは及川の目もあるし。俺の部屋でなら思う存分、楽しめるだろ?」
「勉強を楽しむんですか?」
「まあ、ある意味勉強?」
首を傾げる私に、柳さんは笑顔で言う。
「俺が凛ちゃんをオトナにしてやるよ。大丈夫。及川より上手いから」
私が柳さんの言葉の意味を理解する前に、及川さんがテーブルを叩いた。
大きな音に驚く私の肩を及川さんは抱き寄せる。
「俺が教える」
「冗談だっての。んな怒んなよ。つまんねーヤツ」
「俺の方が上手い」
……勉強の教え方の話だよね。
苦笑いして柳さんを見たらウインクされた。
もしかして……わざと及川さんを怒らせたの?
及川さんが私に勉強を教えるように。
ありがとう柳さん。
今度何か奢ります。
◆
リビングのテーブルに宿題を広げる。
及川さんは数学の教科書を広げて何かブツブツ言ってた。
「あの……及川さん」
「はい」
「すみません。疲れてるのに」
「大丈夫ですよ。年寄り扱いしなくても」
「年寄りとは思ってません」
そんな風に思ってたら好きにならない。
「成績悪化は凛さんの時間を奪ってしまった私の責任です」
「そんなことは……私が勝手に手伝ってるだけですし」
「私のことを想うと何も手につかないですよね」
「な……」
何で知ってるの!?顔に出てた!?
「私が魅力的なのが悪い」
「まあ……そうなんですけど」
及川さんって意外と自分大好きなんだよね。
自信があって羨ましい。
「私も。凛さんのことを考えるとつい力が入って。先日も少々やりすぎてしまいました」
何を、どうやりすぎた?
聞きたかったけど怖いからやめた。
「実は今、とても緊張しています」
「え……何でですか?」
「凛さんと、こんな至近距離で長時間、話すのは初めてですから」
言われてみれば。
身体が触れそうな近さだ。
やっぱり及川さんカッコいい。
微かに柑橘系の香りがして。
香水かな。私も好きな匂い。
……ドキドキして来た。自分から教えてって言ったのに。
「凛さん」
「はい!何でしょう!」
「顔が赤いですよ」
「え!?そんなこと……」
及川さんが距離を縮める。
もしかして……キスされたりしちゃう?
目を閉じようとした私の目の前に、及川さんは教科書を突き付けた。
「勉強に集中してください」
「……はい」
及川さんはやっぱり何でも出来る人だった。
私には難解な問題を難無く解いて行く。
「A(xa,ya)とB(xb,yb)の距離を表す方程式は――」
「えっと……ちょっと待ってください」
「またですか?」
なかなか理解できない私に及川さんは呆れ始めてる。
私は嫌われたくなくて必死だった。
「ちょっとだけ、考えさせてください」
「わかりました」
及川さんは黙って私を見てる。
……緊張して余計に頭が回らない。
好きな人に勉強を教えて貰っても逆効果なのかもしれないと、ようやく気付いた。
「……私、やっぱり柳さんに」
「柳は駄目だ」
及川さん、敬語じゃ無くなってるし。
そんなに柳さんのこと信用してないの?
「じゃあ……自分でどうにかします」
「俺の教え方が悪いのか」
「そうじゃありません」
「では、何故逃げる」
「それは……」
好き過ぎて苦しいから。及川さんのこと。
でも恥ずかしくて言えない。
私は唇を噛んで俯いた。
そんな私にお構い無し。
及川さんはメモに何か書いてテーブルに置く。
「この問いが解けたら褒美をやる」
「……ご褒美?」
「何が欲しい」
今、私が一番欲しいのは。
「……及川さん」
「……俺?」
思わず本音を口にしてしまって焦った。
これじゃ誘っているのと同じだ。
「ち……違います!及川さんの作ったパフェがいいです!って言おうとしたんです!」
「……相変わらず嘘が下手だな」
「嘘じゃないです!」
「わかった。これを解いたらキスしよう」
「だから……違うのに……」
私は目の前の問題を見る。
それは今、勉強してる【図形と方程式】じゃなくて、もっと簡単な……算数というレベルのものだった。
「解いてみろ」
「……バカにしてます?」
私は導き出した答えをサラサラと書く。
「はい。出来ました」
私の解答を見た及川さんが顔を顰めた。
え、なに。どうしたの?
「……凛さん」
「はい」
「そんなに私が嫌いですか」
「好きです」
「では……何故誤った解答を?」
「え……間違ってましたか!?」
嘘。本気で解いたのに。
……嫌われた。絶対に嫌われた。
もちろん、ご褒美のキスは無くて。
残念だけど、ちょっとホッとした。
◆
翌日。学校から帰宅してリビングに入った私に、及川さんが紙袋を手渡した。
「……何ですかコレ」
「開けてください」
促されて封を開ける。
「……やさしいさんすう」
それはどう見ても小学生、それも低学年向けのドリルだった。
「基礎からやり直しましょう」
いや、基礎すぎるでしょ。
10年も遡ってるし。
「及川、本屋でコレ探してたら店員さんに『お孫さんにですか?』って言われたんだと」
「……そうなんですか」
まあ普通はそう思うよね。
彼女に買うものでは無い。
「確かに数学は苦手ですけど……」
「別に出来なくてもいーんじゃねーの?今時はレジも計算機もあるし」
「出来なくては困る」
「何が困るんだよ」
「凛の成績が悪くなれば、此処に居られなくなる」
及川さんも気づいてたんだ。
だから一生懸命、教えようとしてくれた。
「あー、そっか。それは困るな」
「柳さんも?」
「だって凛ちゃん可愛いし。今まで、この及川と2人だけで暮らしてたからよ。そこに凛ちゃんが来てくれて、何か癒されるっつーか」
「……ありがとうございます」
「わかった。俺もやるよ。家庭教師」
及川さんが文句を言う前に、柳さんは続ける。
「俺のが上手いぜ」
私も、そう思う。
及川さんは何でも出来る人だから。
何も出来ない私の気持ちなんて分からないんだろうな。
これ以上、及川さんを失望させたくない。
「勉強は柳さんに教えて貰います」
及川さんは複雑な表情だった。
だから私は、彼の手を取り言う。
「及川さんには、他のことを教えて欲しいです」
「他のこと……と言いますと」
「お料理とか、お掃除とか」
「それだけですか?」
「とりあえずは……」
本当は恋とか愛とか教えて欲しいけど。
たぶん私にはまだ早い。
及川さんが私の手を握り返した。
「私も凛さんに教えて欲しいことがあります」
「何ですか?」
「お誕生日を」
「……誕生日?」
「きちんとお祝いしたいので」
今日って何日だっけ。
テストのショックで日付の感覚も無くなってる。
私は壁のカレンダーを見た。
「あ……明日です」
「明日!?どうしてもっと早く言わないんですか!」
「え……だって、プレゼント要求してるみたいで嫌じゃないですか」
「また遠慮をして。何か欲しいものは」
「特にないです」
及川さんと一緒に過ごせれば、それで満足だし。
「私の懐事情は気にしないで、欲しいものを正直に」
「え……っと」
私は手元のドリルに目をやる。
「コレでいいです。プレゼント」
「……正気ですか」
「だって、及川さんが私の為に選んで買ってくれたものですから」
「だからって……」
「ありがとうございます」
そう笑ったら、及川さんも笑ってくれた。
ちょっと申し訳なさそうだったけど。
「しっかり勉強します。ここに居られるように」
「俺もしっかり教えるからよ。あ、ついでに銃の扱い方も教えとっか?就職先が見つかんなかった時に役立つぜ」
つまり、私に殺し屋になれと?
「そうだ。一丁プレゼントしてやるよ。誕生日だし」
「いりません」
「遠慮すんなって」
「してません」
女子高生の誕生日に拳銃を贈るとか、ありえないでしょ。
「私は普通に生きたいんです」
「普通ねぇ」
柳さんは及川さんを指差して言う。
「コレに惚れてる時点で普通じゃないと思うけどな」
確かに。
及川さんオジさんだし殺し屋だし。
「いい加減、認めろって凛ちゃん」
「……嫌です」
「素質あると思うぜ?【S】の。なぁ及川」
私は及川さんに視線を向ける。
彼は黙ってた。
どう思っているのか感情を読み取ることが出来なかった。
殺し屋になれば、ずっとここに居られるのかな。
そんな理由で人を殺すなんて許されないよね。
2人はどういう理由で【S】になったんだろ。
知りたいけど聞にくい。
及川さんは少ししてから静かに口を開いた。
「確かに凛さんの冷静さと正義感の強さは魅力的です。ですが、それだけでは駄目です」
「……ですよね」
「もっと深い。憎しみが無ければ」
「憎しみ……」
及川さんには、それがあるってこと。
穏やかに見える彼の心の奥底には、暗い感情が眠ってる。
きっと私には一生、理解できない。
「俺にはねーけど。憎しみとか」
「そうなんですか!?」
「婆さんにムリヤリ技術を叩き込まれてさ。まあ他にやりたいことも無かったし」
……軽い。柳さんに殺された人、ちょっとかわいそう。
「理由なんか人それぞれだろ」
理由……か。
ここに居たいから。
でもいいのかな。
傍に居て、及川さんの辛い気持ちを少しでも理解したい。
癒すことは出来なくても。
私が欲しいのは、こうして3人で過ごす日常。
それが叶うなら私は。
何でもするだろう。
◆
柳さんの熱血指導のおかげで、私の成績は前より少し上がった。
及川さんは複雑そうだった。
「……及川さん」
夕食後。キッチンでお皿を片付けながら、私は彼を呼ぶ。
「はい。何でしょう」
「成績、上がりました」
「知っていますよ。柳のおかげで」
やっぱり拗ねてる。
「頑張ったので、ご褒美が欲しいです」
「柳に頼んでください」
「及川さんから欲しいです」
彼は意外そうな顔をした。
まあ、そうなるよね。
若い女の子から誘うとか、ありえないと私も思う。
「……どういう意味でしょうか」
「ですから、デートとか」
「何だ。そういう意味ですか」
どういう意味だと思ったの?
「構いませんよ」
「本当ですか?」
「凛さんの願いなら。私は叶えたいと思います」
私が望んだから仕方なく、って聞こえた。
及川さんは私とデートしたくないのかな。
「……やっぱりいいです」
「どうして」
「無理しないでください」
もしかしたら私の片思いなのかもしれない。
彼も私が好きだって、勘違いして恥ずかしい。
すると、及川さんは苦笑して言う。
「……駄目ですね」
「何がですか?」
「凛さんと居ると調子が狂う」
彼は私の頭を撫でて、そのまま抱き寄せた。
「不安にさせてすみません。どう接していいのか分からなくて」
「……そんなに難しいですか私」
「そうではなくて。私は人の愛し方を知らないんです」
「……え」
「お恥ずかしい話。私は誰かを愛しいと思えない人間でした」
……そうなんだ。
何でも出来て器用な人なのに。
「ですから。凛さんに教えて欲しいです」
「……私にもわかりません」
恋愛経験ゼロだし。今まで興味も無かった。
「そうなんですか?」
「私も、同じです。他人に興味が持てなくて」
絶対に恋なんかしないと思ってた。
及川さんに出会うまでは。
「だから、きっとたくさん間違えます。数学のテストみたいに」
私は彼の胸に擦り寄る。
「及川さんが答え合わせしてください」
「凛さん……」
呼ばれて見上げたら、及川さんが唇を寄せた。
私は思わず顔を背ける。
気まずい沈黙。
先に口を開いたのは及川さんだった。
「……今のは私が間違えましたね。忘れてください」
「あ……違います!ちょっと驚いただけで!嫌なわけじゃ……」
焦って必死に言い訳する私を見て、及川さんは笑ってた。
「難しいですね。人を愛するということは」
「……そうですね」
恋愛には数学みたいに方程式も正解も無い。
誰かに教わるものでもない。
「我々なりの答えを見つけるしか無さそうです」
「私たちの……答え」
それがどういう形をしているのか。
今の私には想像もつかなかった。
【 完 】
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