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江藤菜穂
めざましのアラームがなる前に、泣き声で目が覚める。赤ちゃんは泣くのが仕事だと言うけれど、母だって泣きたい時はある。
ミルクをあげて、朝食の支度をして。好きなアーティストがテレビに出ていようが目を向ける暇もなく、洗い終わった洗濯を干す。
化粧もしないで、マスクをつけてゴミ出しへ向かう。抱っこ紐をしたまま。
「今日は寒いですね」
近所の女子高生が声をかけてくれる。短いスカートを揺らしながら、寒そうに。
「雨が降りそうな空だね。手が凍りそう」
屈みにくい私のために、その子がゴミネットを上げてくれた。親切で、笑顔が可愛らしい子。
「予報では、午後から降るみたいですよ」と赤ん坊を覗き込んで、彼女は手を振り歩いていく。
「いってらっしゃい」
その後ろ姿が昔の自分と重なって、少しだけ懐かしくなった。
初恋の人は高校の同級生で、不器用だけど根は優しい人。なんでも私が優先で、面倒なことも頷いてくれる。
卒業してから同窓会で再会して、付き合うことになった。告白されたとき、夢じゃないかと息の仕方を忘れたほど嬉しくて。
同棲を始めてから、すれ違うことが多くなった。将来への考え方とか、価値観も全て。
『これ、なに? 女の子のSNSのアカウント?』
『生徒だよ。面白がってノートに挟んだんだろ』
『他にも、そうゆうの繋がってるの?』
『ないけど。ただのSNSだろ。それくらいみんなやってるし』
教師という職種だから、異性と関わらなければならないのは承知していた。
あの人は容姿が整っているし、高校時代からそれなりにモテたから、心配は常にとなり合わせで。少しでも綺麗に見られたくて、ネイルやメイク、ダイエットと必死に着飾った。
『菜穂は、なにもしなくてもいいのに。そんなお金かけなくても』
違うの。それは褒め言葉だと知っていたけど、心のどこかでは虚しさが勝っていた。
あなたのために、素敵な女性になろうと努力したことを否定されたみたいで、悲しかったのかもしれない。
今日は昨日の延長だとあの人は言ったけれど、私はそう思わない。
同じように感じる日々でも、少しずつ変わっていて。それは子どもの成長のように、目に見えるものではないかも知れないけれど。
めまぐるしい朝陽を迎えながら、どこか楽しんでいる自分がいる。
例えば、仕事や育児の合間に聴く配信もそのひとつ。彼の歌声に癒されながら、子とひとときの眠りにつく。この柔らかな声は、忘れていたトキメキを思い出させてくれるの。
「……花でも、飾ってみようかな」
あの頃よりもオシャレじゃないし、鏡を見ると泣きたくなることがある。
自分のことから、子どものことへ意識が変化して、人生はこの子のためにあるようなもの。
──だけど。
かさついた唇に、赤い口紅を引いてみる。
流れてくる音楽に合わせて、少しだけ華やかに映る自分がいた。
タンスの奥から懐かしいワンピースを取り出して、女優になった気分でひらりと回る。
いつの間にか起きていた我が子が、楽しそうに笑っていた。よだれまみれの手で、ひまわりカラーの裾を握って。
「そっかそっか。これ、面白いの?」
なにげない毎日の一コマも、かけがいのない時間なのだと。この小さな手が、気づかせてくれる。
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