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1.
「百五十円のお返しです」
百五十円分の小銭と共に渡されたのは、ハガキサイズの封筒だった。模様一つない、何も書かれていない真っ黒な封筒を眺め、矢守志信は目の前の店員を見つめ返す。
「これ、なんですか?」
店員は何も言わず、黒く重い前髪の隙間からジッと大きな瞳を覗かせている。この店員に接客してもらったことは何度もあるが、今日はいつもに増して不気味だった。
前髪がやたらと長いマッシュルームボブに、耳にぶら下がった大量のピアス。ひょろりと細長い手足にも、ブレスレットやらアンクレットやらミサンガやらをジャラジャラとぶら下げている。カラオケボックスの店員とは、ここまで髪型や服装の自由が許されるものなのだろうか。そういえば、この場所、カラオケボックス『にっこり』に訪れると、時折ピンクやら青やら、派手な髪色をした若い店員を見かけることがあったなとぼんやり思い出す。看護師をしている自分とは大違いだとぼんやり思いながら、志信はもう一度、封筒を目の前で掲げて見せた。
「あの、これってクーポンか何かです?」
志信の質問には答えず、店員はもじもじと身を揺する。何だか気持ちが悪い。お釣りももらったし帰ろうかと封筒をバックに仕舞うと、大きく息を吸い込む音がした。反射的に顔をあげると、店員は真っ直ぐに志信を見据え、もう一度深呼吸をする。
「わたくしの名前は三崎肇。二十歳。フリーターとしてバイトをあちらこちらで掛け持ちする傍ら、『イチ』という芸名で、『アポトーシス』というバンドのボーカルを勤めています」
ぎこちない敬語で早口に自己紹介をする肇に呆気に取られながら、志信は「あぁ、どうも……。矢守です」と戸惑い気味に自己紹介をする。肇は再び、すぅぅ、と大きく息を吸い込むと、はぁぁ、と更に大きく息を吐き出した。
「わたくし、三か月程前に矢守様の接客をさせて頂いた時、その情緒不安定な激しい歌声に魅力を感じまして、こうしてお手紙を差し上げた次第であります」
たどたどしい口調で肇は言葉を続ける。そんな彼を怪訝そうに見つめながら、情緒不安定な激しい歌声、という言葉を志信は口の中で繰り返した。褒められているのだろうか、貶されているのだろうか。それとも新手のナンパだろうか。だとすれば下手すぎる。様々な憶測をしながら志信が首を傾げていると、肇は勢いよく頭を下げた。
「では、失礼致します」
「あぁ、ちょっと」
志信が引き留める間もなく、肇は逃げるようにキッチンの方へと引っ込んでいく。志信はもう一度、肇にもらった真っ黒な封筒を見つめる。こんな封筒、どこに売っているのだろうか。志信は溜息をつくと、封筒をバッグに仕舞い、エレベーターに乗り込む。一階のボタンを押すと、志信は肇に渡された封筒をバッグから取り出し中身を確認した。
封筒の中には、薔薇のイラストがプリントされた一枚の黒い便箋と、チケットが入っている。
二つに折られた便箋を開くと、黒い紙の中心に、白い丸文字で『ファンです』と一言だけ書かれていた。随分女性的な字を書くのだなと、ボンヤリとした感想を抱きながら、チケットを確認する。どうやら、ライブのチケットのようで、開演時間は明日の二十時からになっている。どうやら対バン形式のようで、数々のバンド名が書かれた中に、肇が所属する『アポトーシス』の名前があった。
「二十時、か」
ライブ当日である明日は日勤で、定時は十七時。残業があったとしても十九時には帰宅出来る。そして明後日は休みだ。場所を確認すると、自宅から自転車で十五分程の距離にある小さなライブハウス『ネオン』だった。『ネオン』ならば、退勤して夕食を食べてから向かっても、充分に間に合う。しかし、疲れて帰って来て、またすぐに自転車を漕いでライブに行くのは正直面倒だ。
改めてチケットを確認すると、ドリンク券が付いている。どうしようかと考え込むと、小さな衝撃と間抜けな機械音と共にエレベーターの扉が開いた。とりあえず、ライブに行くかは明日の気分で決めよう。チケットと封筒を再びバッグの中へと戻し、夜闇へと歩き出す。通りすがりの公園の時計台で時刻を確認すると、午前零時を過ぎていた。
ついに、二十代最後の一日が終わってしまった。暗闇に浮かぶ時計を眺めて、志信はひっそりと溜息をついた。
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