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「今夜は新月。わたしは夜目が利く。信じてついて来てもらいたい」
女の髪は漆黒で艶やかだったが、目の色はハシバミ色であった。
「名前くらい教えてくれ」
「イリヤだ。じゃあ、そろそろ見張りが戻るだろうから行く」
イリヤもアストナ同様まだ若いが、細い身体には山の民らしい筋肉の盛り上がりが衣装を透けて見て取れた。後宮に居てもおかしくないほどの美貌なのにと惜しいような気もしたが、健康的な美しさだとも思った。
「待っている。イリヤ」
丸太より飛び降りたイリヤは後頭部で一括りにした黒髪を揺らした。
「ククリクは約束を守る。そして恩は忘れない」
口調もサバサバとして、勿体つける後宮の女たちとはまるで違っていた。
イリヤは周囲を見渡すと、低木しか生えていない無駄に見晴らしいいこの地を滑るように後にした。腰にはダガーを差していたが見たところ武器はそれだけのようだった。よっぽどの手練れか、ただの素人なのかアストナには判断がつかぬところだ。恐ろしく腕がたつ男ほど気配を消すのを知っていた。イリヤはどちらだろうか。イリヤが山の民であることを考えると筋肉質なのはさもありなんというところだし、ダガーくらい護身用で持っていてもおかしくなかった。よってイリヤがどっちなのかはわからずじまいだった。
それにしてもだ。どうせならもっと食い物を与えて欲しかった。甘みは確かに体に染み渡るしかなりの活力を取り戻したが、腹が空きすぎて胃を中心に絞られたような痛みを感じていた。そして喉の渇き。感覚としては体中の全ての水が干上がっているように思うが、ごくりと唾をのみ込めることを考えると一応まだ何かしらの液体は残っているらしかった。
考えることは都でのことや、兄の裏切りのことではない。樽のふちまで入ったよく冷えた水や、果汁が溢れとろけるような桃。今ならあの桃に生えた産毛などものともせず皮ごと食らいつく。皮に歯を立てれば甘くトロリとした果汁が舌を満たすだろう。いやそれより、肉汁が滴るシカルトがいい。あれは確かイリヤの属する山の民ククリクの料理だと聞いている。林檎のソースにバターをたっぷりを掛けたあれを腹いっぱい食いたい。いやまて、何日もほとんど食べていないのだからプラムの塩漬けをいれたオーツ麦の粥でもいい。あれは素朴な味だがきっと委縮した胃袋に優しいだろう。母ならば真っ赤なクコの実を散らしたがるだろうが、アストナは粥の時は塩だけでもいい。まあ、母が亡くなって久しいので単なるイメージに過ぎないのだが。
妄想だけでは腹は膨れないが、口の中にまだ残る甘みで幻想に輪郭ができた。ぼんやりとした匂いではなく、はっきりと肉汁を思い描くことすらできた。やはり一番食いたいのはシカルトだ。塩漬けにした鹿肉を軽く洗ってニンニクで炒め、胡椒を利かせたあれを頬張りたい。林檎のソースで長時間煮込んだ肉は骨からほろりと肉が剥がれるのもいい。
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