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新月
夕刻、空に灰色の分厚い雲がかかり、乾燥しきった土に大粒の雨が落ちてきた。
磔にされたまま首をもたげ、口を開くと雨粒を受け止めた。乾いた口腔内にやっと潤いが戻り始めた。あまりに乾燥しすぎて舌を動かすのにも難儀だったので普段なら厄介者の雨が贈り物のように輝いていた。
雨は身体を冷やすから良くないが、喉の乾きのほうが既に限界だった。よってこれで低体温になり動けなくなってもいいから雨が降り続いて欲しいと願った。願いは神に届いたらしく太陽が落ちきった後も雨はシトシトと大地に落ち続いていた。
イリヤの言葉通り今夜は新月らしい。雲の合間から覗く月光もなく、星もない。雨も手伝ってほんの少し先も見えぬ闇夜を迎えていた。アストナの精魂が尽きるのを待ちわびる猛禽類たちも今日ばかりは様子を見に来ないらしい。雨が降り始めてからは一度も姿を見ることがなかった。
日が落ちてから温度が下がると共にアストナの意識も朦朧とし始めていた。空腹と寒さ、肉体的疲労、イリヤが今夜来なかったらアストナは明日辺り猛禽類たちにたかられているだろう。アストナにはやりたいことはまだまだあるのに、髪から滴り落ちる水滴がアストナの体力を刻んでいるかのようだった。
「寝ているのか」
暗闇からハッキリと聴こえるイリヤの声に微睡んでいた意識が覚醒した。
「待ちくたびれただけでぴんぴんしている」
アストナの強がりを鼻で笑いながらイリヤがまずは足首を固定した縄を切り落とした。解放された足は居場所を求めてブラブラと揺れる。
「見張りは眠らせた。一刻も早くここから離れる」
足から離れた縄を一本に繋ぎアストナの胴体へと巻いて一番上の十字になった丸太へ一度回転させてからイリヤは自分の胴体へと縄を括り付けた。
「腕の縄を離したらアストナは丸太にしがみついて欲しい。そこからはゆっくり下りるのだ。力が落ちているのはわかっている。縄で私が支えるから」
到底できるとは思えなかったが、迷う暇もなくイリヤはダガーを飛ばしてアストナを何日も拘束していた腕の縄を切り落とした。アストナは身体を反転させてなんとか丸太にしがみつく。胴体につけられた縄がピンと張られ身体に食い込んだ。それは悲鳴を上げそうになるほど痛かった。冷え切って無感覚に近かったのに痛覚は健在だった。
「急げ! アストナの体重を支えきれない」
切羽詰まったイリヤの声に奮起し、手足に力を入れてなんとか丸太から下りてきた。久しぶりの地面にへたれこむと、イリヤが直ぐに二人を繋ぐ縄を解き、丸太によじ登ってダガーを回収し、アストナの元へと寄ってきた。
「上を向いて」
指示よりも先にイリヤは手が出るらしい。言葉を理解する前に顎を持ち上げられて口を開かれ、死ぬほど不味い液体を口の中へと流された。口の中にこの世のものとは思えぬ渋みを感じ、喉を通過するときは灼けるような熱さを覚えた。脱力しきったに脳内に無数の針を刺されたようにビリビリとする。
「お前……これ、毒じゃないだろうな」
「いい考察だ。力は漲るが明日あたり熱が出るだろう」
マリスナのキノコは即効性があるからと説明されたが、そんなキノコの名前などアストナは聞いたこともなかった。しかし、確かに恐ろしく不味い液体を摂取した直後から身体に力が湧いてくるのを感じていた。頑張っても四肢がダラリとしていたのに、今は言葉の通じる相手になった。
「行こう。高熱で動けなくなる前に辿り着かなければ。私ではアストナを担ぐことはできない」
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