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イリヤという女は山に精通しているのだ。新月で獣道すら定かでないのに迷いがない。そればかりか崖やぬかるみに差し掛かれば足を止めアストナへの配慮を忘れない。このような有能な案内人がこれまでいただろうか。それに肝が据わっていて、アストナが小枝を踏んで予想外の大きさで音が立っても振り返りもしなかった。それぐらい取るに足らないと背中で語っているようで、アストナも枝を折ったくらいでは気にならなくなった。
数時間歩いているとやっと雨が止んだ。その頃、アストナは質問したいという気持ちすら失ってどうにか生きているという有様だった。体温は下がり切っており、感覚はほとんどない。あれほど不味くて吐き気を催す得体のしれないキノコ入りの液体をもう一度飲むべきなのではないだろうかと迷っていたが、それすら口に出すのが億劫だった。
木々が途切れたところに出た。薄っすら空が淡い紅色に染まっている。夜明けが近いらしい。太陽を感じるだけで仄かに温かさすら覚えていた。
「辛かったか? もう着くからあと一頑張りだ。さすがそこらの皇族とは違って根性があるな」
アストナの方は息も絶え絶えだというのに、イリヤはそんなアストナに温かい視線を送る余裕を見せていた。それが癪でアストナは腹に力を入れて言い返す。
「磔にされてなかったらわたしとてこれくらいの山道、余裕で登ってこられる。バカにするな」
「バカになどしてないさ。本気で褒めただけだが、まあわたしは人を褒めるのが上手くないので許してもらいたい。さあ、身を隠せるところに入って体を横たえよう」
それまでは前後で少し距離を保ちつつ歩いてきたが、そこからは並んで歩いて行く。そうはいっても崖がそそり立ち、道幅は狭く、すぐ下は急流になっていたので、時々並んでは前後ろに戻りまた並んで歩くの繰り返しだった。
「ここはこんな感じで馬も通ることが出来ない。それにもうすぐ雪が降るから危険すぎて近づくものはいない。だから、しばらくは二人っきりだ」
そういうと突き当りの大きな岩の横にあるひと一人ギリギリ入れる隙間にイリヤは入って行く。外から見るととても入れるところなどなさそうなのに、体を通してしまえば再び少し広くなっており、その先には明らかな人工物、積み上げた石の枠と戸があった。
「さあ、思う存分寝て疲れを癒すといい」
戸を開けるとそこは自然にできた洞窟で、板一枚分の細い小川が流れていた。火打石を取り出したイリヤがカンテラに火を入れると更に全貌が明らかになった。寝台が二個左右に分かれておかれており、真ん中には石を積み上げた炉が作ってある。ここで煮炊きをするらしく、炉の両脇には棚がしつらえており、ルトのところでも見た料理道具が並んでいた。
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