社畜は焼き鳥の夢を見る

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 俺は同僚の(みさき)さんが好きだ。だから、この店の焼き鳥も好きだ。  小ぢんまりとした飲み屋のカウンターで香ばしい焼き鳥(タレ/もも)の串にかじりつきながら、アルコールによって霞む思考がそんな由無(よしな)(ごと)を吐き出す。  営業事務の岬さんは言うなれば弊社のアイドルだ。他人を属性で評するのはナンセンスだが、彼女に限っては「清楚」という言葉がぴったりくる。さらさらストレートの黒髪に縁取られた小さい顔に、いつもきらきらした笑顔を浮かべている。  彼女の好物は俺が今いる店の焼き鳥だという。もちろん、デスマーチの連続で押し潰れる寸前のしがないプログラマである自分には当然岬さんは高嶺の花であるから、俺は事務的なやり取り以外で彼女と話したことはない。したがって、好物情報は岬さんと同僚の女性の会話から漏れ聞いたものに過ぎない。  無論、懸命に聞き耳を立てていたわけではなくて自然と聞こえてきてしまったのだが、その情報を元に店にこっそり来て岬さんを思いながら焼き鳥を食らっているのは究極的に気持ち悪いムーブだと理解はしている。しかしこうでもしないと、会社時々家でほぼ完結している自分の生活には一滴の潤いもないのだ。このままではいつか「無敵の人」になるのも時間の問題である。岬さんの存在はもはや、俺の正気をとどめている最後の命綱と言っても過言ではない。過言ではないところがさらに救えない。  彼女が好きだというぱりぱりに焦げた皮や軟骨が入ったつくねや脂の乗ったぼんじりを平らげ、ぼんやりとした将来への不安をビールで蹴散らしながら、嗚呼、と嗟歎(さたん)の溜め息を漏らしそうになる。  ――俺がこの焼き鳥だったら、岬さんに喜んで食べてもらえるのになあ。  酔いを得た思考は奇妙な方向になだれ落ちていく。焼き鳥となって岬さんに食べられた俺は何段階もかけて分子レベルに分解され、岬さんの消化器官の壁から吸収され、岬さんの一部となって彼女とともに生き続けられる。それが叶うなら人生がここで終わったって構わない。  もちろんそれは、あまりにも下らない夢想であり迷想であり妄想である。こんな気色悪い想像を口に出さないくらいの理性はぎりぎり保っているつもりだ。 「へえ。君、なかなか愉快なことを考えているね」 「へっ」  突如として乱入してきた声に肩がびくりと跳ねる。隣の席を見ると、いつからいたのか、若い男が腰かけてこちらを覗きこんでいるのだった。  薄く笑みを浮かべ俺を見やる青年。黒い、というのが第一印象だった。緩やかにウェーブのかかった長めの髪も艶のある黒だし、ジャケットもインナーも柄のない黒だ。極め付けに、新月の夜が(こご)ったような(くら)い、昏い目をしている。  男は普通じゃまずお目にかかれないほどの美形だった。くっきりとした目鼻立ちと、褐色に近い肌がどことなくアラブの風を漂わせている。  俺は動揺した。もちろん自分にこんな知り合いはいない。愉快なことを考えている、という相手の発言もおかしかったが、へべれけの俺はさっきのキモい思考が口から漏れ出てしまっていたのだろうと理屈をつけた。 「え、愉快ってなんですかー? ていうか誰?」 「好いた相手の好物になって食べられたいなんて、愛そのものじゃないか。僕が誰かっていうと、そうだな。悪魔とでも名乗っておこうかな」 「悪魔ぁ?」  あまりに常軌を逸した自己紹介にけらけらと笑ってしまう。素面(シラフ)だったら絶対に顔をしかめていただろうが、べろべろに酔っているためもう何もかもが面白いのだ。  自称悪魔は光のない瞳でじっと見つめてくる。 「僕が叶えてあげようか? 君の願いを」 「あはは、じゃあお願いしまーす」  その軽薄な己の声はどこか遠くの方で聞こえた。俺は依頼しながらも、男の発言を真面目に取り合うのも馬鹿らしい酒の席での冗談だと捉えていた。だって、それ以外にないではないか。  黒々とした青年の双眸が、一瞬だけぎらりと光った。  翌朝、俺が気がかりな夢から目覚めると、自分がベッドの上で一羽の鶏に変わってしまっているのに気がついた――なんてことはなく、普通に二日酔いの頭痛で目覚めた俺はよれよれの会社員のままだった。  飲み屋での出来事はぎりぎり覚えていたが、店からどうやって帰宅したかの記憶がない。まあ、あの悪魔と名乗る男との邂逅も含めて昨夜のことは忘却しても支障ないだろう。願いを叶えるとか何とか言って、きっとあれはたぶん相手の悪ノリか、酔いすぎた故に俺が見た幻だったに違いないから。  また先週と何も変わらない泥のような日常が続くと信じて疑わなかったが、俺の思いは昼休みになって打ち砕かれることになる。それも良い方向に。 「あの、林田さん。ちょっといいですか?」 「えっ? あ、はい。何でしょう」  昼食の時間も惜しんでPCの画面を睨んでいると、突然岬さんに声をかけられて椅子の上で飛び上がりそうになる。振り返ると岬さんが近い。何やらすっきりとしたいい匂いも漂ってくる。一瞬でバグった脳に鞭打って、挙動不審に陥りつつなんとか返答を行う。 「今日の仕事終わりって何か予定入ってますか? もし()いていたら私の家に来ませんか」 「え……え!? あのいや、良いんですか。ええと、じゃあ……伺います」  我ながら無駄な台詞が多い。その分岬さんの貴重な人生の時間を自分が奪っていると考えると猛烈に申し訳なくなる。  ほとんど会話したこともない異性の同僚を自宅に誘うなど明らかにおかしいし、昨日の自称悪魔との会話を振り返れば明らかに不穏なのだが、そのときの俺に不自然さを嗅ぎ取る力はなかった。なぜなら岬さんから初めて個人的に話しかけられて死ぬほど舞い上がっていたからだ。  そういうわけで岬さんと連絡先を交換した俺は、理不尽なサビ残を終えてから教わった彼女の住居にふらふらと向かった。まるで自ら炎に飛び込む羽虫のように、(はた)から見えることには思い至らないまま。  岬さんの住まいは小綺麗なマンションの一室で、当然のようにオートロックが備わっていた。心臓が口から飛び出そうになるのを感じながらロックを解除してもらい、部屋へ上げてもらう。もう、意識がぶっ飛びそうだった。  すると、岬さんの整頓された部屋には、彼女の他に先客がいた。  昨夜出会した、悪魔を自称する男。彼が意味深長な笑みを口許に張りつけ、こちらに手をひらひらと振っている。  なんでここに、と(いぶか)しんでいると、一旦キッチンへ引っ込んでいた岬さんがリビングに戻ってきた。  たおやかな手に包丁が握られている。刃先は俺に向けられていた。 「え、あの、岬さん……?」  尋常ならざる状況に一気に冷や汗が噴き出してくる。じりじり近づいてくる彼女から距離を取ろうとして、すぐ背中に壁がついた。  岬さんは熱烈とも言える眼差しで俺を一心に見つめている。 「林田さんが来てくれて嬉しいです。私、今日の朝からずっと、あなたを串焼きにして食べなきゃいけない気になってて……おかしいですよね……。でも、でも! これはやらないといけないことなんです。そう、絶対に……林田さん、あなたをこんがり炙って、美味しく食べてあげますからね……。私のお気に入りの店の焼き鳥みたいに、香ばしく調理してから……」  俺は動けなかった。恐怖で硬直していたのではない。俺の名を熱っぽく呼び、うっとりと頬を赤らめてさえいる彼女の様子に、見とれていたからだ。  俺の体の中で駆け巡っている激情は、感動ですらあったのかもしれない。  悪魔が願いを叶えると言うのだからもっと超常的な事象が起こるのかと思い込んでいたけれど、岬さんに手ずから解体され調理され食べられるのも悪くない。豚肉を使った焼き鳥だってあるのだから、俺とて彼女の好物の焼き鳥になる資格はあるだろう。確かにそう思ってしまった。  部屋の隅で悠然と様子を睥睨(へいげい)している悪魔の青年をちらりと見る。美しくもニヒリスティックな微笑がそこにはあった。きっと奴が岬さんに何かしたのだろう。俺は彼を憎めばいいのか感謝すべきなのか、結局最期まで分からず仕舞(じま)いだ。  自分が最高に美味い焼き鳥になったところをイメージしながら、俺は静かに目を瞑った。
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