李凰国の少年 7

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李凰国の少年 7

 李凰の神が生まれたとされる山は険しく、滝もあった。足元がおぼつかず、視界が揺れ、木の根の張る地に両手をついた頃、 「だらしねえな、もうへばったのかよ」  笑いを含んだ声が降ってきた。顔を上げずとも声の主は分かった。  篤弘は手足を踏ん張り、激しい呼吸に揺れながら身を起こしてTシャツの胸の前で両手を合わせて頭を下げた。額から滝のように汗が流れ落ちてゆく。自分の呼吸の音がうるさい。顔を上げるとすぐそばに夏朗が便所座りをして篤弘を見ていた。さも可笑しそうに笑いながら。  夏朗も随分と汗をかいているが涼しそうだ。まるで牧場で羊を追い立てる犬のごとく彼は、走る少年達を後ろから追い立てながら険しい山を走ってきたのだが呼吸の乱れもない。  少年達と同じく半袖Tシャツにハーフパンツ姿であり、和服でない夏朗を目にするのは初めてだが、そのさまは外界にいる一般的な少年と何ら変わりなかった。スポーツのよくできるクラスメートそのものだ。  その腕や脚には筋肉ががっしりと付いており、それらはいつも和服の下に隠れているからこそ逞しさが際立った。茶道の稽古の後に行われた柔道の稽古ではその筋肉によって篤弘はいとも簡単に投げられ、視界には余裕に溢れた夏朗の笑みだけがあった。  そして篤弘は八百人もの少年達の一番尻でへばっている。こんな山を走った経験はない。皆の脚力や肺活量に驚愕である。しかし言い訳をこぼそうとする口を噛み締め、こぶしを握りしめて篤弘は引きちぎれそうな肺や筋肉達と戦う。夏朗を失望させたくなかった。  厳しいトレーニングが行われるのには理由があるという。数ヶ月ほど前に、とある新興宗教団体によって敷地内に火炎瓶が投げ込まれ火災が起きたというのだ。屋敷にあるすべての消火器を使用し皆でバケツリレーも行ってなんとか大事には至らずに済んだらしいが、李凰国は山奥に存在するゆえの弱点を抱えていた。襲撃を抑えるべく基礎体力を向上し射撃術を学び李凰国を守ることが国民の義務となった。  現在、李凰国には世継ぎがいない。それゆえ李凰の命を狙い、国を乗っ取ろうとする輩であるのがその新興宗教団体なのだという。団体名は、アランの教、であり、黒装束に身を包んでいると聞いた。  視界に少女達の姿が映る。少女部も走り込みを行っているようだ。篤弘の前で呼吸を乱していた少年達の背筋がすっと伸び、篤弘の背筋もまた伸びた。少女達の前に情けない姿を晒すことはできない。  軽く会釈をしながらすれ違うのがルールのようだった。少年部と同じ体育服で少女達が汗を光らせながら颯爽と走り去ってゆく。皆、引き締まってはいるが痩せているのとはまた違うものがあった、鍛えられているのだ。顔かたちは十人十色、しかし目の表情は皆同じである――李凰の神のもとにいる、凛々しく強く、清く正しい目。男も女も変わらない。 「頑張れ」  夏朗の笑った声が篤弘を追ってくる。
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