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導き 2
どうだった。客が帰った後、店の女が駆け寄ってきた。
別に何も、と篤弘は答えた。本当に何もなかった。会話ひとつしていない。
あらそう、と女は意外そうな口ぶりである。何だったんだろうね、ほんとにただのお客さんだったのかな。
篤弘はさっさと着物を脱ぎ始める。ちょっと、ここで着替えるのやめてっていつも言ってるでしょ。女が顔を赤らめる。
裏口で待ち伏せをされることはよくあった。しかし男にそれをされるのは初めてのことだった。
先ほどはありがとうございましたと言うべきか迷っていた。迷いながら黙っていた。相手が女であればこちらが黙っていても勝手にぺらぺらと言葉を飛ばしてくるし、べたべたと触ってくるからそれをあしらうだけのことで済んだ。
しかし今日はどうしたものかと思った。月の明かりに照らし出されながら、和服の男はただ、立っているのだ、篤弘を真っすぐに見据えて。
くっつき合うように建ち並ぶいくつもの飲み屋の窓から明かりが漏れ出し、そこから酔っ払いの笑い声や皿を洗う音などが響いていた、いつも通りに。その音に揉まれながら目を伏せ、そっと消えてしまおうと思った。思った瞬間、
「おまえいくつ?」
声がやって来た、ふわりと。低い声だった。
随分とくだけた物言いだなと篤弘は思った。先ほどまで纏っていた凛々しさが一蹴され、とたんに距離の近いものとなる。
「十五です」
「中学生か」
「いえ」
「じゃあ高校一年だな」
「高校には行ってません」
そうか。和服の男はその締まった頬にゆるく笑みを浮かばせる。歳の離れた弟に笑いかけるような性質のものである。
下駄の音が近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと、だが着実に距離を詰める。もう逃げられなくなる。男の目に捕らえられ、もはや動くことを許されない。
背の高い男である。篤弘を見下ろしながら彼は穏やかに笑い、
「立派な看板ボーイだ」
と言った。言いながら手を伸ばし、篤弘の頬に触れた。
「可愛いな」
秋のさなかと言える夜風が肌を通り過ぎてゆく。足元を野良猫が走り去ってゆく。
至近距離である。月夜の似合う男だと、篤弘はその目に思った。
「あなたは何者ですか」
月明かりの中、篤弘の問いかけを受けて、男はふっと笑う。
「分かってんだろうが」
男の指が篤弘の頬から首筋へと、ゆったりと降りてゆく。硬質な、男の指である。
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