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導き 5
「結局、あの男にたらしこまれたってわけね。たった一晩でねえ」
女が煙草の煙に巻かれている。あぐらをかいているから和服がめくれ、脚がむき出している。
「手切れ金をくれるって」
「いくら?」
女の目がくるりと動いて篤弘の目を捕らえる。その目に篤弘は、一千、と答える。何、千円? と女が歯をむき出して笑い、一千万、と篤弘は答え直す。
「まじか」女がゆるく笑う。「あいつら相当、金持ってんのね。それでも結構な痛手のはずよ。あんたにそれだけの価値があるってことか」
女が灰皿に煙草を押しつける。開け放した窓の向こうから入り込む乾いた秋風にその黒い髪を揺らされながら、
「で、それであたしがあんたを手放すと思ってんの」
女は言った。篤弘の目を真っ向から見据え。
自称四十歳、年相応である。名はヒロコだ、自称。名を呼んだことはない。
「あそこは禁欲の世界よ。一度、女の味を知ればあんなとこに行く気も失せるわ」
女が自身の衿の中に手を入れ、するすると、安いポリエステルの音を立てながらそれをはだけて、白い肩をあらわにする。
歌が途切れることはなかった。身体は確かに快楽に溺れているのに、あの歌だけは脳内で冷静に鳴り続けていた。
「もうできないのよ」
女は言う。しっかりと和服を着付けた篤弘は女の前に正座をし、畳に両手を揃え、深く頭を下げる。
「お世話になりました」
「ばぁか」
最後に女は捨て台詞を吐いた。
月明かりの下で夏朗が待っていた。彼の背後に複数の人影をみとめ、足を止めた篤弘に、怯えるな、と夏朗は言った。金を持ってきた、だから護衛だ、と。
それから夏朗はその視線をゆっくりと篤弘の背後に移してゆく。
篤弘の後ろにいる女に向かって夏朗は真っすぐに背筋を伸ばしたまま胸の前で両手を合わせ、それから頭を下げた。彼の背後にいる男達も同様に手を合わせ、頭を下げた。和服の男達のそのさまは、あの歌の中で育ち、鍛えられた、気高い武士そのものだった。
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