第二章 選択

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 どれくらいそうしていたんだろう。疲れ果てたからだを、周が気に入っていたソファに沈みこませている。  連日の寒さをわびるようにふりそそいでいた陽光は、もう姿を消していた。カーテンのすきまから、うすら寒い灰色のグラデーションがのぞいている。その寒々しさは、暖房がきいてあかりの灯った室内とは、別の世界みたいだった。  ずうっとこうして、このまま朽ちたいと思う。なのに生理的欲求はやってきて、せめて空腹を感じたのならまだ様になるのにと思いながらトイレへ立つ。動くと周ののこり香と痕跡がそこかしこに残っていた。それがさみしい。  なんにも考えたくなかった。  なんにも考えたくないのに、さみしくて、さみしくて、周のことばかりが浮かんでくる。  最後に、バイバイと弱々しく言った、周の声がよみがえる。あの表情は、どんな意味があったんだろう。どんな気持ちで言ったんだろう。  紗彩のもとに行くと、清清して言ったんだろうか。  ──そうだったらいいと思う。周がつらいのなら、僕のことは忘れてくれたってかまわない。だけど……。  もうひとりの周はどうなるんだろう。僕を番だと言った、周のなかのもうひとつの人格。彼は僕と同じようにさみしいだろうか。それとも、最後に手をはなした僕に怒っているだろうか。失望しているだろうか。  あぁでも、僕の番の周には、別人格の記憶はないと言っていた。だったら紗彩に周をたのむと言った、ぼくの言葉は聞かずにすんだのか──。  周には、ずっと笑っていてほしい。それは本心だけれど──。      ◇  あのとき、周は紗彩に助けをもとめたあと、突然の腹痛に苦しみだした。お腹を押さえて痛いとまあるくなる周におどろいて僕があたふたしているうちに、紗彩は持っていた薬を与え、かいがいしく世話をやいた。  紗彩に指示されるまま動きながら、手慣れた紗彩のようすに打ちのめされた。いまの周を誰より知っているのは、僕じゃないんだと思い知らされる。  しばらく安静にさせたいからと言われてベッドを提供した。  昨夜は僕と一緒にねむったベッドに周を寝かせる。移動するために僕がだきあげたときはからだを固くしたのに、横たわらせた周の腹部を、紗彩がなでた時には心底ほっとした表情をしていた。  さっきむき出しになった周への怒りは、苦しむ周のすがたに、しゃぼんだまみたいに消えて、かわりにきりきりと胸が痛む。それに気づかないふりをして、ふたりを見た。周に無理したようすはなく、紗彩もこころから心配しているようだ。  それは、仲睦まじいふうふを見ているようで──。  そっと寝室をでてとびらを閉める。仲の良いふたりは見たくない。見たくないけれど、そのとびらの向こうを想像せずにはいられない。  ひとり外を歩きながら考えていた。これから僕がどうしたらいいのか。僕らはどうなるのか。周がいちばんしあわせになれるのはなんなのか。  とびらの向こうのふたりが、その答えだとは思いたくない。でも──、周が忘れてほしいと言ったのは、こういうことなんだと思う。  じっとしていられなくて、丁寧にコーヒーを淹れる。そういえば、このコーヒー豆もふだんはコーヒーを好んで飲まない周が、これがいいと決めたものだった。  少しだけはなやかな香りと飲みやすさが気に入っていたのに、周がいなくなってからはしまいっぱなし。買ったときに比べたらずいぶんとにおいが飛んでしまったかもしれない。  ぽたりぽたりと一滴ずつ落ちる雫をみとどけて、マグカップに注いだとき寝室のとびらが開く。無視することもできなくて、もうひとつカップにコーヒーを注いで紗彩にさしだした。  ありがとうと礼を言ってカップを受け取る紗彩に、周が言うとおりに悪いひとではないんだと思う。周にしたことを思えば、とても常識的とは思えない。けれどそれもフェロモンが影響してのことだったと思えば、僕だって身に全く覚えがないとは言えない。  僕らはたまたまちいさなころに出会っていて、第二性がわかってからもすぐにパートナーになって、たまたまその相性もとても良かった。  ──そう、それは運命といえるくらいに。  僕は周以上に魅了されるフェロモンをもつひとに出会ったことはないし、周もそうだった。だからこそ、番になる前は不安定で、相手がパートナーだったから事故にならなかっただけだともいえる。  現にフェロモン事故と呼ばれるそれは、毎日のようにどこかで起きていて、同情も許すこともできないけれど、どうしようもないことでもある。僕だってそれを無くしたくて、薬学を選んだのだ。  すこしでも、周が生きやすい社会になってほしくて──。 「周さんのことですが──」  口火をきったのは紗彩だった。昨晩、周から聞いたのと同じ話を、今度は紗彩の視点から報告される。周はつまりながら、思い出すように話していたのに対して、紗彩の話し方はとても端的で、ある意味まるで他人事のようだった。けれど、なんどもごめんなさいと、ひどく辛そうにあやまることばは、心からのものだと思った。  だからといって、許せるわけではないけれど……。  紗彩から聞く話からは、周が教えてくれたものよりもずっと、周の体調が不安定なのだとわかった。  通常女性であれば、オメガは母体としてとても安定していて、妊娠中のトラブルも少なくこどもの発育もいい。深く妊娠について知らない僕でも知っているくらい、それは常識だった。  けれども周のホルモンはずっと安定せず、妊娠したにもかかわらず、発情期のような発情フェロモンの暴走すらあったという。そしてそのころから、寝てばかりいるようになり、周がいることに気づいたそうだ。そうして、徐々に僕の番の周と、紗彩の番の周でいる時間が逆転していったらしい。  ずいぶんとやせていたのは、つわりで食事が摂れないのに加え、流産の危険があるからと安静にしていたせいで、筋肉が減ってしまったのだという。  僕が考えていたよりも、妊娠はずっと周のからだの負担になっていた。そして、いまは一時的に安定しているけれど、もしかしたら今日のことをきっかけにまた、寝たきりの生活になるかもしれない。  そして何より、無事に赤ちゃんを産むのはとてもむずかしいだろうと告げられた。  それから紗彩は、改まって周のことを自分に預けてほしいと言った。本来なら出産、場合によっては産後までずっと入院しなければいけないけれど、自分の元でなら入院せずに自宅にいることもできる。もちろん看護師も医師もつけるからと。  ──悔しい。こんなことで負けたくない。けれどには周にそうしてやるほどのちからも、お金もない。  俺のことは忘れて生きてほしい。  周がそう言った意味。……それはきっと、単純に紗彩が好きになったからというのとはちがうのかもしれないと思う。きっと、周なりに考えてそれで出した結論なんだろう──。
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