第一章 気になる

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第一章 気になる

 薬の効果もあって薬を飲んでから数時間は、少しぼんやりとするけれど、いつも通りの生活が送れる。発情期でないときは、一日一錠の発情抑制剤を飲んでいた。それは発情期の飲んでいるものよりも効果がおだやかで副作用も少ない。  今飲んでいる発情期中の薬の効果は約八時間から十時間。飲めるのはどんなに多くても一日二錠。どうやっても効果の切れる時間がある。けれどそれ以上飲んだら、薬の効きが悪くなるうえ、次の発情期どころか、普段の発情抑制剤も飲めなくなるかもしれない。抑制剤が使えなくなっては、入院するしかない。そう言われてはがまんするしかなかった。  だんだんと心拍がはやくなって、からだが熱くなり、妙な興奮状態がやってくる。病気のときのだるいとかそういうのとは違って、とにかく落ち着かない。極限までがまんしても、結局最後は気持ち良くなりたくて下半身に手をのばす。一度吐精すればそれが楽になって、二度吐精すればもっと楽になって落ちついた。  それがわかってしまったら、我慢するよりつい自慰にふけってしまう。どうせ誰も見ていない。けれど妄想はだんだんとエスカレートして、それが当然のような錯覚におちいる。  最初の三日間は薬の効果が薄れると、うんざりするほどの熱を持て余して、数えきれないほど彰聡が相手の妄想で抜いた。それが過ぎるとすこしずつ理性を取り戻して、だんだんと冷静でいられる時間が増えてくる。  なのに記憶の中にこびりついた快感は消えず、一度外れてしまった(たが)は簡単には戻らないと、俺は嫌というほど知ることになった。  はぁ……。  ため息交じりの息をつく。  手のひらには吐精したばかりの、生温い体液がこびりついている。さっきまで妄想のなかで、これでもかと彰聡とあついからだを交わらせていたというのに、いまはびっくりするほどに冷めている。 「ほんとに……、どうすりゃいいんだ」  どろっと流れて落ちそうになった精液をあわててぬぐって呟いた。彰聡を相手にした妄想はとんでもなく気持ち良くて、すっかり癖になってしまった。  なんとかして軌道修正してみようかと試みたものの、これは本能なのかどうか。どうしても最中に彰聡のにおいがしてくる。それが気のせいなのかもわからなくて、俺は自分のフェロモンを感じる能力は、ポンコツなんじゃないかと疑っていた。  この部屋に彰聡が来たことは数えきれないほどあるけれど、今まで残り香なんて感じたこともない。それでも自慰に耽っていると、不思議とにおってくるんだから仕方がない。  彰聡は最初にお願いしたとおりに、極力放っておいてくれた。最初の三日間は連絡も来ず、四日目にようやく一通だけメッセージが届いた。それまで当たり前のように毎日会っていたことを考えると、なんだか寂しいくらいだ。  ……そう、俺は自分から、かまわないでくれと言ったのに、連絡がこなければそれはそれで不満らしい。身勝手極まりないんだけど、まさか自分がこんな感情になるなんて思ってもみなかった。  番にならないかと持ち掛けられたあと、ほんのすこし俺たちはぎくしゃくした。それでも基本の関係は変わらず、ようやく普通に振る舞えるようになってきた。  番にならないかというのは、言ってみれば結婚を申し込まれたようなもので、さすがに厚顔な俺でも、フッたばかりの相手にべったりっていうのも悪くて、彰聡が生徒会の文化祭準備で忙しくなって、すこしだけほっとしてもいたのだ。  なのに、いまさら寂しくて物足りないなんて。  しかも性的対象に見れないから、って断っておきながら、今更自慰のおかずにしていますなんて。……言えるわけねーだろ。  それに、もしかしたら彰聡に反応してしまうのはオメガの本能で、発情期がすぎたら、すんと収まってしまうかもしれないっていう、期待なのか、怖いのかわからないきもちもある。相手がアルファだから発情はするけど、それ以外ではお断りですなんて、いくらなんでもひどい。  だけど、この放っておかれる寂しさは……、さすがに性欲だけじゃないだろう。      ◇  発情期はだいたい一週間。それに大事をとってプラス二日、合計九日間が隔離期間と決められている。彰聡と一緒に帰った日も足して約二週間ぶりに学校に行くことになった。  前回、初めて発情期を迎えたときよりはマシだけれど、今日も気が重い。なんつーか、本当に、そうなんだから仕方ないんだけれど、発情期で休んでいたというのが、どうしても慣れなくていたたまれない。  今日も太陽はギラギラと容赦なくて、二週間近く家に閉じこもっていたから、外に出たらそれだけで具合が悪くなりそうだ。ドアを開けるととたんに蝉の声が近くなって、一歩外にでる前にうんざりした。  けれども、母親の「今日行かなかったら、明日はもっと行きにくくなる」という言葉が頭の中に蘇って、そうなんだよな、と諦めて玄関を出る。それだけなのに、くらりと目眩がしそうな暑さにため息をつくと、おはよう、と聞き慣れた声がした。 「お…はよう、どうしたの?」 「学校も外も久々だから、迎えにきた」 「こどもじゃねーんだから、一人でも行けるって」  久々の生彰聡にびっくりして、おもわず憎まれ口をたたく。どきどきと心臓がうるさい。 「うん。でも心配だしついでだから。一緒に行こうよ」  冷たい返事は照れかくしだってわかっている彰聡が、俺のことばなんて気にせずに、やんわりと笑って誘う。その表情にまた、どきりとして、うんと返事をして歩き出した。  少し前をゆく彰聡の影を踏みながら歩く。  何度も、おかしな妄想をしてしまったからだろうか。真っ直ぐにとなりに並ぶことができない。なんだか彰聡がやたらと大きくまぶしく見える。  身長も、胸板も、こんなに大きかっただろうか。こんなにりりしい瞳をしていただろうか。こっそり盗み見るみたいにしてしていると、怪訝そうに彰聡が名前を呼んだ。  すこし小走りに、いつも通りにとなりに並ぶ。  このどきどきがバレないように、いつも通りに。  けれど頭の中は、いつも通りってどんなだっけ?って、それでいっぱいになっていた。学校までの道のり、なんども話しかけられては、緊張でぐるぐるしたままおかしな返答をして心配された。心配そうに覗き込んだ彰聡の顔にびっくりしちゃうし、話す声にうっとりして内容は忘れちゃうし、本当にもう散々。  なんなんだ、これ……。って、わかっている答えを考える。  発情期の間に変な妄想をたくさんしたから、だから勘違いしているだけなんだと思う。妄想の中の彰聡は優しくて、女の子ではなかったけれど、理想の恋人みたいな。  ……当たり前だ。ぜんぶ俺の妄想なんだから。ぜんぶ俺の願望で、ただ理想の恋人を当てはめただけ。それが彰聡本人なんじゃなくて、理想に彰聡の姿を被せただけ。  理性ではそう思うけれど。  でもこれは、完全に意識しちゃってる。  ……むしろ、好きになって来ちゃってる!?  混乱する頭は、学校に行きづらいとおもった事なんて簡単に忘れて、俺は一日、彰聡を盗み見ることに専念したのだった。
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