序 僕らの生活

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序 僕らの生活

「おはよう」  甘い香りとやわらかいキスで目が覚める。  僕を目覚めさせたふわふわの髪をなでたくて手を伸ばすけれど、それより一瞬早くからだは離れて、はやく起きてと急かされた。ゆっくりとした二人の時間が欲しいから寝室には時計は置かない。  居心地が良いように、キングサイズのベッドにはお金をかけた。白が基調のファブリックは、夜の朝も彼が寝ているだけで芸術品になったように見える。ゆるやかにしずむスプリングはやんわりとからだを支えて、ベッドから出て行くのを拒否しているようだった。  天窓から射しこむきらきらとした朝陽は、まるで僕らの幸先を象徴しているようで、この家の何よりも気に入っていた。  連日の研究による寝不足で、だるいからだをゆっくりと起こしてベッドから折り、素足のまま小柄な彼の後を追う。二人の暮らすこの部屋はさほど広くないけれど、まだ社会人歴の浅い僕らには充分すぎるものだった。ドアを開けたままの寝室を出ると、すぐにダイニングキッチンがある。  インスタントのコーヒーと食パン、目玉焼きだけの朝食が乗ったカウンターテーブル。簡単すぎるように見えるこれでも、寝起きの僕は全てを口にしたらお腹いっぱいになってしまう。朝食を用意してくれた彼の後ろに立ち、さっき触れたかった髪にふれた。ふんわりと手をくすぐる髪が甘い香りをふりまいてたまらなくなり、軽くキスを落とす。  彼は、もう、と言いながらため息をついてくるりと後ろを振り向き、ん、とキスをねだった。そのもも色のくちびるにキスを落として軽く抱きしめる。 「ごはん。時間、ないよ?」  無情に告げられた声に、カウンター横の時計を見ると、確かにすぐに準備をして出なければ間に合わない時間だった。大学の研究室に出向という形で、企業に所属しながら研究を続けさせてもらっているのは、正直アルファという第二性への期待の部分が大きいと思う。その立場で研究をないがしろにすることはできない。特に今は試薬を試していているところでひとときも気を抜けない。  本当はもっとこの腕に抱きしめられていやされたい所だけれど、断腸のおもいで抱きしめた手を離した。    コーヒーにスプーンに山盛りにしたシュガーを入れて溶かす。くるくるとかき混ぜて溶け切らないうちに口をつけると砂糖のかたまりが舌の上でざりとあそぶ。忙しいときほど糖分が欲しくなった。いつもなら砂糖の入れすぎだと叱る彼も、今日は何も言わずに、じっと僕を見ている。 「もうすぐ、ひと段落するから……」 「うん。わかってるから大丈夫」 「ごめんね?」 「申し訳なさそうにすんなって。何年一緒にいると思ってんだよ。俺はそうやって研究してる彰が好きだから……」  彼は何年経っても、そのことばを口にする時にはほほを赤くして、そんなところも可愛いとおもう。けれど、もう一か月くらいまともに休めていない。つまりは彼とゆっくり過ごす時間もないわけで……、彼がわかってくれても、がまんしてくれても、僕の方ががまんできなくなりそうだった。 「ひと段落したら休みとるから、ゆっくりどこか行こうか」 「ばぁか。家でゆっくりすればいいだろ」 「でも……」  外を出歩くのが好きな彼に気づかってそう言うと、彼の顔がくしゃりとくずれて笑った。 「外にいるより、彰と家にいる方がゆっくりできるから。ほら、あともう少しなんだろ。がんばってこい」  うん、と頷いて立ち上がる。……もう、ゆっくりしている時間はなさそうだった。    *  彼の名は天川(てんかわ)(あまね)、会社員ではあるけれど、仕事の半分程は自宅でしていた。僕の幼馴染であり、一万人にひとりとも言われるほどめずらしい男性体のオメガで、僕の番でもある。  周の清潔そうな黒髪は、色を入れていないのに淡く青いグレーの色味を帯びている。真っ直ぐに僕を見つめる瞳も同じ色で、涙をたたえて潤むと、深い海のように感じた。健康的な肌色はアウトドアで焼けた夏限定で、冬になって日差しが弱まるとあっと言う間に色白になってしまう。  かよわい印象はないけれど、その顔立ちのためか周は性別不明で中性的に見えた。外からの見た目は男性ではあるけれど、オメガ男性と、逆の存在であるアルファの女性は動物的に見たら中性になる。  僕は糸井(いとい)彰聡(あきさと)、男性体のアルファは千人にひとりと言われていて、周ほどにはめずらしくはない。周りが言うほどに優秀ではないが、世の中の偉人にアルファが多いせいで過分な期待をかけられる。けれど、そのおかげで研究にも専念できるので、なんとかその期待には応えたいとおもっている。  僕たちはアルファと男性体オメガの番だった。  いくら世の中にアルファとオメガという存在がいるのだと定着してきても、千から数千人にひとりという出現率は、アルファやオメガを通常のベータのひとにとって、身近なものにはしなかった。特に男性体のオメガはオメガ全体の一割と言われていてめずらしい。  僕らは傍からみたら、同性のカップルに見えるのだろう。同性愛は僕たちの子どものころに比べたら一般的なものになってはいるけれど、そんなに多くあるものではなく、迫害はされなくても目立ってしまう。それが例えアルファとオメガで番なんだとしても、そう看板を掲げて歩くわけではないのだから目立って当然のことではあった。  むしろアルファとオメガというその稀有な存在が知られてから、物語の中でロマンチックに語られるようになったせいで、その性別を公表する方がより煩わしくなっていた。  けれどもアルファとオメガ、特にオメガに至ってはどうしても発情期間を隠すことができずに、自分の意志とは関係なくカミングアウトせざるを得ないことも多い。  周も高校で現れたオメガの兆候──、つまりは発情期のせいで周の意志に関係なくオメガだとまわりに知れわたった。それでも通常であれば、近くにアルファさえいなければ大きな問題はない。  現在ではアルファとオメガは、オメガバース症候群という指定難病として、フェロモンの抑制剤療法が確立していて、オメガでも抑制剤さえ飲めばベータには影響のないフェロモン量に抑えることができる。ただそれでも発情期間はフェロモンの量を抑えても、自身の発情状態は抑えきれないために一般的には入院治療を行うことになっている。  それに例外があるとすれば、アルファとの性交で治めるしかないわけだけれど、医療行為としてよく知らないアルファと性交をしろなんて許されるわけがない。  実際、オメガのフェロモンへの反応はグラデーションで、オメガがフェロモンの抑制剤を服用していなければベータでも反応することがある。けれど、そのフェロモンはアルファには段違いにの効果があり、極短時間のフェロモンの吸収でオメガと同じに発情状態になってしまう。  偶然なのか導かれたのか、周のフェロモンが許容量を超えて放たれたとき、幼馴染で親友で、同級生でもあった僕がそのフェロモンに反応した。その時は緊急抑制剤に救急車まで出動する大騒ぎになってしまった。  けれど、ドラマや映画の中で語られるアルファとオメガの関係は、僕らにとってどこにいるかわからない現実のアルファとオメガの姿よりもよっぽど身近だった。だから周がオメガだと知れ渡るのと同時に、僕がアルファだということも、ドラマティックな妄想で彩られて知れ渡った。  それに運命じみたものを見出したのは、もちろん周りの人間だけじゃなくて僕らも一緒で――。  そもそも僕らは、初めて出会った小学生のときから互いに好意を持っていた。それは隠しようもないほどはっきりとしたもので、互いに相手が特別なんだと認め合うような不思議な感覚で、けれども僕らにとって、とても自然なものだった。  それが思春期になり、なんとなく恋愛は男女がするのが一般的なんだと気が付いた。もちろん同性が対象でも、そもそも恋愛の概念がないこともあるとは知っていた。けれど、男性同士だった僕らは、大多数の『一般的』とちがうことに恐怖を覚えた。たぶんそれは互いに、互いを想い合ってのことだったと思う。  好きなだけで行動するよりも、もっと深く相手を思いやるようなそのきもちと、どうやってつきあってゆけばいいのかを手探りで探していた。  そんなときに僕らがアルファとオメガだと発覚して、あの想いはまちがいじゃなかったんだと言われた気がした。  出会ってすぐの小さなころに、赤い糸が繋がっているという可愛らしい伝説になぞらえて、小指をからめて交わした約束。ままごとじみた、けれど真剣な約束。あれはきっと、僕たちの人生を決める約束だった。  ──きっと僕は、周がオメガでなかったとしても、周のことを好きになっていただろう。  そう思うけれど、同じ強さで、僕らがアルファとオメガであることに感謝した。  そうして僕らは番になり、今は一緒に暮らしている。
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