第一章 はじまり、発情

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 朝一番の検温と発情抑制剤の服用。それがオメガだとわかってからの朝の習慣だ。  発情期が始まる前は基本体温が高くなるらしい。基本は女性の排卵期とおなじだと聞いて、そらおそろしくもあったけれど、にんげんとしての基本は変わらないんだとちょっと安心もした。  体温を記録したグラフを見た医師に、そろそろ二度目の発情期が来るかもしれないと告げられた。初めてのときはどうだっただろうと思い返してみても、やたらと暑かったこと以外は何も覚えていなくて参考にならない。  何の味もしない小さな錠剤を飲みこんで、学校にいく準備をする。朝の通学路は彰聡と一緒に過ごせる貴重な時間になっていた。 「よぉ」 「おはよう。今日は余裕あったな」 「めっちゃ走ってきたもん」  駅のそばで前を歩いていた彰聡に、はあはあと肩で息をしながら声をかける。小さなころから変わらない習慣。 「余裕あるんだから、歩いてくればいいのに」 「なんでだよ、彰聡が見えたから走ったんじゃん」 「前みたいに家まで迎えに行く?」 「や、無理。彰聡も走んないといけなくなる」 「それでもいいよ」 「良くねーよ。たまに遅刻する」 「そうだけど」 「駅につくまでに俺が追いつけばいいんだから、いーの」 「迎えに行った方が安心なんだけど」  無意識にされていたその気づかいが、自分と番になりたいと聞かされてしまってからは、彼女扱いのように感じてちょっと居心地が悪い。それでも彼女と自分で言うには抵抗があって「こども扱いすんなよ」 「まだ来ないって思いながら電車に乗るの嫌なんだ」 「ここんところ間に合ってるだろ」 「そうだけど……」 「はやく行こうぜ」  話を切り上げて先を急いだ。  ほんとうは番だなんて話を出されてから、微妙に彰聡を意識してしまって、寝起きはさすがに気まずい。それから彰聡には言えないけれどほんの少し、発情期がはじまっていたら?という恐怖もある。  俺は何も変わらないと言い聞かせなきゃいられないのに、彰聡はいままでと何もかわらずにいるのがなんだか悔しかった。  小さな駅の改札を抜けて、ちょうどよいタイミングで到着した電車に乗り込む。ときおり一人掛けの席が空いているけれど、ドアの際に向かい合って立った方が顔が近くて話しやすい。いつも通りにそうして、いつも通りにたわいない話をする。  外に比べたら日が当たらない分だけ涼しいけれど、蒸し暑さはこっちの方が上だ。たらりと流れる汗に、制服の開襟シャツの胸元を掴んでぱたぱたと仰いだ。その腕を、彰聡がつかんだ。 「周」 「なに?」 「……降りよう」 「は?」  おどろいて見上げると、彰聡が思いのほか険しい顔をしている。なんでと問う前に、はっとして、急にどきどきと心臓が鳴りだした。  俺の発情期には、多分俺自身よりもアルファの彰聡の方が敏感なはずだった。フェロモンがあふれだしたりしているんだろうかと不安になって、一瞬すがるみたいに彰聡を見る。そんな自分に気が付いてうつむいた。 「大丈夫。他のひとにはわからないくらいだから……」  それが大丈夫なのかどうかはわからないけれど、そう言われて、こくりとうなずく。汗ばんではいても今は初めて発情期が来たあのときほどは暑くないし、立ちくらみもない。ただ、緊張でじんわりと嫌な汗がにじんで、鼓動と電車の振動がおんなじくらいに聞こえた。  次に停まった駅から乗る同級生に、けげんな顔をされながら電車を降りる。彰聡が彼と何かを話していたけれど、それに注意をはらうほどの余裕もなかった。彰聡に手を引かれたまま、ホームに設置されたベンチに座ると、彰聡が近くの自動販売機で飲み物を買ってきてくれた。  差し出されたそれをぼんやりと見ると、ふたを開けて飲めと差し出される。受け取ったままごくごくと三分の一ほどを飲むと、なんだか頭がすっきりとしてきた。 「どう? 落ち着いた?」  心配そうに見下ろす彰聡が聞いた。 「ありがと。ちょっと、すっきりした。……薬は飲んでるんだけど、発情期、始まってるのかな」 「まだ大丈夫。走ったし調子悪かったのかもね」 「なんで大丈夫だってわかるんだよ」  完全に彰聡は善意でしてくれたことなのに、つい不安から言ってしまう。 「たぶん僕、周のことだったちいちばん分かるよ。匂いだって毎日かいでるんだし」 「毎日かいでるって……、俺、そんなにくさい?」 「じゃなくて! いい匂いっていうか、くせになるっていうか……。周、ずっとそういう匂いしてるから」 「いつも、フェロモン出てるってこと?」 「なのかなぁ。他のオメガの発情の匂いはサンプルしか知らないけど、それとは少しちがうんだ。周の匂いだけはすぐにわかる」 「……そんなん、ヤバいじゃん。俺、病院で何も言われてないんだけど」 「発情とは別の匂いだから。……いや、でも同じなのかな? でもたぶん、俺しかわからないんだと思う」  さらっと言われて混乱してしまう。それは、オメガのフェロモンというわけではなく、俺の体臭とかそういうことなのか。アルファって嗅覚も犬並みなんだろうか。 「周は、アルファのフェロモンて感じないの?」 「……わ、かんねぇ……。感じてるのかどうかもよくわかんないし、オメガもわかんないし」 「そっか……、そうなんだ」  彰聡が納得したようにうなずく。  フェロモンといったら何となく、発情したときのふらりと酔うかんじがそうなのかと思うけれど、それが自分の発情のせいなのか、彰聡のせいなのかと聞かれれば、そのどちらのせいなのかは自信がない。  アルファとオメガと対みたいに語られても、こうして話してみるとかんじている世界がちがうのだとわかる。俺は彰聡のアルファの部分なんてよくわからないのに、彰聡には俺を見透かされているようで、居心地が悪い。 「で、どうする? このまま帰るか、病院に行くか」 「……薬飲んでるけど、学校行ったらまずいよな」 「薬がどれだけ効くかわからないし、家が嫌なら病院までついて行くから」 「そんなん言ったら、彰聡がいちばんマズイだろ。アルファなんだから。……ごめん、遅刻しちゃうけど、彰聡は学校行っていいから」 「僕は抗フェロモン剤飲んでるから大丈夫。ちゃんと最後まで送るよ」 「抗フェロモン剤飲んでるの?」 「うん、だから心配しなくても大丈夫だから」  なんで、という言葉は言えなかった。オメガの発情抑制剤は一般的だけれど、アルファ用の抗フェロモン剤に比べて高価で使われることは少なく、そもそもがバースが理由でアルファが病院にかかること自体があまりない。  だから彰聡が抗フェロモン剤を飲んでいるとしたら、俺のためのはずだ。けれどバースの話なんて、発情期後の退院あとにしたきりで、次の発情期がいつだとかそんな話はまったくしていなかった。  薬を一錠飲むだけ、たしかにそれだけなんだけれど。  自分に得があるわけでもなくて、お金だってそれなりにかかるし、ひとによっては副作用だってある。だけれど俺に何も言わずにそうしてくれていた。  それが嬉しかった。  ──だから、ってわけじゃないけれど。  病院で会ったひとの、大切にされて初めてオメガで良かった、ということばを思い出して、誰よりも俺のことを大切にしてくれるのは、やっぱり彰聡なんだろうと思った。
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