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2 怖い人たちの事務所
ガチャリ。
玄関が開く音がした。夢のような気もしたけど、本当の音にも聞こえる。
「こいつ、寝ながら泣いてるっすよ」
「静かにしろ。寝てるならちょうどいい。起きて騒がれても面倒だ」
「そうっすね」
誰かの話し声が聞こえた。家賃を払うのはまだ少し先なのに誰だろう。
この部屋はお母さんが働いていたお店の持ち物で、お店にいるサングラスをした人が家賃を取りに来る。それ以外で部屋に来る人はいない。
(とにかく起きないと)
そう思っているのに体はまだ寝ているのか動かなかった。
「こいつ、起きそうじゃないっすか?」
「薬を嗅がせておけ」
「了解っす」
何か鼻に被さった気がする。手で払おうとしたけど手も腕も動かない。そのうちまた眠たくなってきた俺は、そのままぐっすり眠ってしまった。
(……歩く音がたくさん聞こえる)
いつもなら遠くに聞こえるはずの足音が近くで聞こえる。聞き慣れた酔っ払いの怒鳴り声じゃない声も聞こえてきた。
(もしかして、もう朝……?)
変だなと思いながらゆっくり目を開けた。見えたのは知らない真っ白な天井だった。これは部屋の天井じゃない。首をゆっくり横に向けると、今度は真っ黒なものがすぐ目の前にあって驚いた。
(何だこれ?)
そういえば背中も痛くない。俺の布団はぺしゃんこだから寝ると痛くなるのにフカフカしている。「変だな」と思って反対側に体を向けたら知らない男の人がいてびっくりした。
「目ぇ覚めたか」
声は聞こえていたけど、頭の色が気になって返事ができない。
(すごいピンクだ)
ギラギラのピンク色をした坊主頭なんて初めて見た。お姉さんたちが働いているお店のネオンと同じくらいすごい色だ。その人がドアを開けて「兄貴に起きたって伝えてこい!」と叫んでいる。
(兄貴って、もしかして……)
慌てて起き上がると、やっぱり真っ黒なソファだった。こういうソファはお店の奥に置いてあって、怖い人たちや偉い人が使っている。
(じゃあ、ここもどこかのお店ってこと?)
部屋を見回していたら男の人たちがやって来た。茶髪のサングラスの人が入ってきて、それから黒髪の人、その後ろには金髪の人もいる。茶髪の人はお姉さんたちのお店にいる人に似ていた。いつも派手なスーツとサングラスをしていて大体が怖い顔をしている。
その後に入ってきた黒髪の人は見たことがない雰囲気だった。それにとても綺麗な人だ。男の人だと思うけど、お店のお姉さんでもこんなに綺麗な人は見たことがない。
「おいこら、ボスをじっと見てんじゃねぇぞ!」
ピンク頭の人に怒鳴られて「ヒッ」と肩をすくめた。
(ボスってことは、この黒髪の人が一番偉いってことだ)
その人がテーブルを挟んだ向かい側に座った。
俺は膝に乗せた手をギュッと握り締めた。嫌な汗が背中を流れている。ここはお店じゃない。怖い人たちがいる事務所だ。
「こら、子ども相手にいきがるんじゃない」
「ハイッ、すんません!」
「それから声、でかいよ」
「ハイッ、すんません!」
「……はぁ」
黒髪の人がため息をついた。
(……知ってる人たちと違う感じがする)
サングラスの人たちはもっと怖い。とくに偉い人がいるときはピリピリしている。それなのに、ボスがいるこの部屋はあまりピリピリしていない気がした。
「で、本当にこの子どもも売人なのか?」
「締め上げたヤツのスマホには、こいつの写真が残ってたっす。写真が残ってた他の二人も売人だったんで、間違いないっす」
「メッセージの履歴も連絡先もなかったんですけどね。現場押さえて後つけさせたんで、売ってたのは間違いないですよ」
ピンク頭の人と茶髪の人は、たぶん俺の話をしている。内容はよくわからなかったけど、きっと俺にとってよくない話だ。
「子どもを使って荒稼ぎしているとは聞いていたけど、それにしても子どもすぎやしないか?」
「ほとんどは大学生のようですけどね。中にはそのままシャブ漬けにして、別の仕事もさせてるって話ですが……」
全員が口を閉じた。全員が俺を見ている。睨まれているわけじゃないのに一瞬で体が強張った。
「さすがにこんな子どもには、そこまでやってないんじゃないっすかね」
「三玄茶屋の奴らもそこまで落ちちゃあいないでしょうが」
「実際にシャブ漬けにされてるのは大学生が中心だったな」
「そうですね。最近はそれ以外にも手を広げているらしいとは聞いていますが」
「もしやと思って連れて来させたけど、この子は大丈夫そうだな。……ふむ」
目の前で綺麗なボスが綺麗な指で顎を撫でている。
「きみ、名前は?」
綺麗な目が俺を見た。そのことにも驚いたけど、名前を聞かれたことにびっくりした。
ボスと呼ばれるような偉い人は、どうでもいい奴の名前を聞いたりしない。顔を見ることもない。それなのに俺の顔を見て名前を聞いた。事務所に連れて来たってことはボコボコにして後は川か海に捨てるだけなのに、どうして名前なんか知りたがるんだろう。
「おい、ボスが聞いてんだぞ! さっさと答えろ!」
「だから、子ども相手にいきがるんじゃないって言っただろう」
「ハイッ、すんません!」
「だからうるさいって」
そう言ってピンク色の頭を叩いたのは茶髪の人だ。でも怒っている声には聞こえない。こんなサングラスの人も初めて見た。
「で、名前は?」
二度目の質問に慌てて口を開いた。
「あの、俺蒼って言います」
答えてから、自分がガラガラ声だということに気がついた。
「あぁ、かわいそうな声になっちゃって。コーヒー……は駄目か。そうだ、オレンジジュースがあったはずだから、持ってきてあげて」
「ハイッ!」
勢いよく返事をしたピンク頭の人がバタバタと部屋を出て行く。
「それじゃあソウくん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「は……、」
「はい」と答えようとして、慌てて頷いた。ボスの機嫌を悪くしないためにもガラガラ声は出さないほうがいい。
「ソウくんは……こういう箱を運ぶ仕事をしていた?」
綺麗な人の綺麗な手の上に、俺がいつも運んでいる荷物と同じような箱があった。同じ箱かはわからないけど模様は似ているし、たぶん大きさとかのことを言っているに違いない。そう思ってもう一度頷く。
「この箱の中身が何かは知ってる?」
仕事を始めたとき、中身が何かは知らなくていいと言われたから聞いていない。だから首を横に振った。
「じゃあ、この箱を……、あぁ、オレンジジュース来たね。まずはそれ、飲んで」
戻って来たピンク頭の人がオレンジジュースの入ったコップを目の前に置いた。コップには氷がたっぷり入っていておいしそうだ。
(本当に飲んでもいいのかな)
コップを見て、それからボスを見る。するとボスがニコッと笑ってから「どうぞ」と言った。
(たぶん、飲まないほうが大変なことになる)
汗びっしょりの両手でコップを握り、目を閉じてから口をつける。ゴクリと飲み込んだ俺は、あまりのおいしさに目を見開いた。そのままゴクゴクと勢いよく飲み干した。
「これはまた、えらくおいしそうに飲むな」
ボスがすごく綺麗な顔で笑っている。飲み干して正解だったんだとホッとしながら「もう少し味わって飲めばよかった」なんてことを思った。お腹が空いていたから氷も食べたかったけど、さすがに駄目だと思ってテーブルにコップを戻す。
「おかわり持ってきてあげて」
「ハイッ!」
(おかわりって、まさかジュースの?)
どうしておかわりまでくれるんだろう。そう思っていると、ボスが「それでね」と話しかけてきた。
「この箱を運ぶように言ってきた人のこと、知ってるかな」
一度しか会ったことがないから名前は知らない。薄暗いお店の中だったから顔もあまり見えなかった。声なら覚えているけど、声だけじゃ誰かなんてわからない。だから今度も首を横に振った。
「ま、そのうち見つかるだろうから、そのとき面割りさせればいいか」
「それでいいんですか?」
「だってソウくん、何も知らないみたいだからね。それに子どもにこれ以上怖い思いをさせるわけにもいかないだろう?」
(……子どもって、もしかして俺のこと?)
そういえば最初にも「こんな子ども」って言っていた気がする。
(俺が小さいからだ)
もうすぐ十八歳なのに、お店のお姉さんたちにも「中学生にしか見えない」と言われていた。てっきりからかわれているだけだと思っていたけど、他の人たちのもそう見えているってことだ。
(そりゃあ昔から小さかったけど)
いつもなら気にならない。でも、勘違いされたままなのはよくない気がする。そう思った俺は「あの、俺子どもじゃないです」と小声で訂正した。
「子どもじゃないって……ソウくん、いくつ?」
ボスの顔が少しだけ怖くなった。答えようとしたけどうまく声が出ない。
「いくつなんだ?」
声まで怖くなった。俺は俯きながら「十七歳です」と何とか声を絞り出した。
「え、マジで?」
茶髪の人の驚いたような声が聞こえた。
「え?」
初めて聞くこの声は金髪の人だ。
「これはちょっと」
困ったようなボスの声も聞こえる。やっぱり十七歳に見えていなかったんだ。
「あれ? どうかしたんすか?」
戻って来たピンク頭の人が、俺の目の前にオレンジジュースを置きながら不思議そうな声を出した。でも、誰も返事をしない。
テーブルに置かれたオレンジジュースはやっぱりおいしそうで、本当はいますぐにでも飲みたい。そのくらいお腹が空いていたけど、さすがに今度は飲めるような雰囲気じゃなかった。
「そうか、十七か」
「十七でも事務所に置いておくわけにはいきませんね」
「たしかにここには置いておけないな」
「かといって、このまま帰したところでまた売人を続けるでしょうし」
「頭を潰すまではおとなしくしておいてほしいかな。どこからどう見ても子どもにしか見えないけど、年齢がわかればシャブ漬けにされてもおかしくない」
「小遣い稼ぎの売人は軽く脅すだけで足を洗うでしょうけど、おそらくこのタイプは続けるでしょうね。その先は言わずもがなでしょう」
ボスと茶髪の人の話が終わり、また静かになる。
「そうだ、藤也に預けよう」
「藤也さんに、ですか?」
「うん。だってあいつ、こういう子好きだろう? いや、絶対に好きだな」
「……たしかにど真ん中でしょうけど」
「じゃあ決まりだ。藤也に電話して」
少しだけ頭を上げてボスを見ると、ボスの後ろに立っている金髪の人が電話をしているところだった。いまの話からすると俺は誰かに預けられるらしい。
(俺が運んでた、あの箱のせいだ)
よくない仕事なんだろうとは思っていたけど、本当によくない仕事だったんだ。だからここに連れて来られた。そしてここはお店の偉い人たちがいる事務所に違いない。
(そういうところに俺は捕まった)
捕まってしまうくらいのことをしてしまった。だから連れて来られて、今度は部屋に帰すわけにはいかないから別のところに連れて行かれる。本当はボコボコにされるところだったのかもしれないけど、俺が子どもにしか見えないから別の方法に変えたんだろう。
こういうとき大抵は風俗店に連れて行かれる。知り合いのお姉さんの中には、そういう理由で働かされている人がいた。男が働く風俗店もあるから、そこに連れて行かれるに違いない。
もちろんどういうことをするお店かもわかっている。そこで延々と働かされ、最後は臓器売買で売られるのかもしれない。
怖い人に捕まるということは、そういうことだ。小さいときからいろいろ見てきたから、最後はどうなるのかも何となくわかる。
(部屋に帰れないのはしょうがないけど、お母さんの写真くらいは持って来たかった)
それが残念だった。だって、俺にはそれしかお母さんを思い出せるものがないんだ。
(そうだ、まだ払い終わってない家賃はどうなるんだろう)
それに今日の仕事もさぼってしまった。そんなことを考えていたら、ボスが「オレンジジュース、飲んでいいからね」と言ってくれた。
ボスは偉い人で怖い人のはずなのに優しい人だ。よくない仕事をしていた俺にこんなにおいしいオレンジジュースを二杯もくれた。
(今度は味わいながら飲もう)
半分くらい飲んだところで俺を引き取るっていう男の人がやって来た。俺は半分残っているコップを未練がましく見てから、男の人に連れられて事務所を出た。
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