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プロローグ
大きなホールにピアノの旋律が流れる。
ベートーヴェン作、ピアノソナタ第26番Op.81a「告別」
大きなホールには、ロブの髪を揺らしながら、滑らかな指先でピアノを弾く少女が一人。そして、それを最前席で聞くもう一人の少女の姿があった。
私の名前は結城鈴音。ピアノしか脳がない高校二年生だ。過去には天才ピアニストとして名前を残したこともある。だが、今はそんな称号など疾うに捨てた一般人。ピアノが上手いだけの人間だ。
と、自己紹介をしてるのも束の間、最後の音を弾き終わる。
「すごいよ…やっぱり鈴音ちゃんは天才ピアニストだね!」
「いや、そんなことないよ。」
私の演奏を聞いた友達が、ポニテの髪を揺らしながらその場で立ち上がり、拍手を送る。6月のコンクールの日が近いから、ホールで演奏を聞いて欲しいと誘ったのは、今日が初めてであった。
「噂には聞いてたけどやっぱり格別だね。今弾いたやつの一個前…えっと本番で弾こうとしてたやつ…なんだっけぇ。とりあえず、それも凄かった!」
「あ、ありがとう。」
「ね、なんで今の曲を弾いてくれたの?その曲はコンクールに出そうと思ってるやつじゃないんでしょ?」
「何で…か。」
その問いかけに悩み、ピアノの鍵盤を見つめる。
私は、この曲が特段好きというわけではない。むしろ嫌いな曲だ。今から3年前、コンクールでこの曲を弾いたあの日からずっと嫌いだ。だけど、この曲だけは完璧に嫌いになれない。指先を慣らすために弾く曲では必ずこの「告別」を弾く。でも、なぜ嫌っている曲を弾きたくなるのかはよく分からない。だから、私はいつもこう答える。
「嫌いだけど好きな曲…かな?」
「えー!何それー!」
「はははっ、私もよく分からないや。」
貸し切りのホールで友達と会話を交わし、これから塾があるからと友達はこの場を後にする。そして私は、またピアノの鍵盤に指を置く。
「…もう少し練習しよ。」
次のコンクールはかなり大きなコンクールだ。そのコンクールで優勝をすれば、日本中の高校生ピアニストが集まるさらに大きな大会に出ることができ、日本一を目指すことが出来る。
私の夢は世界一のピアニストになること。それがピアノという宝物を与えてくれた亡き母への手向けとなるからと信じているからである。だから…
「私は…次のコンクールで優勝しなきゃならないんだから。」
亡き母が幼い頃にくれた誕生日プレゼント、ピアノのおもちゃ。その時の思い出が最高の宝物であり、ピアノが私の夢となってくれた。父も母も亡くなってしまった今、私に残るのはピアノしかない。だから、私は世界一のピアニストになるしかないんだ。
「…おィ、そこのお前ェ。」
と、突然にノイズ掛かった野太い男の声が聞こえる。その時、ここのホールの関係者が私に何か言うために話しかけてきたのではないかと考えた。だが、今回はホール貸切で私以外誰もいないし、もし誰かが入ったならば扉や足音で分かるはずだ。そしてなにより、明らかに人が出しずらいであろうノイズ掛かった声の要素が決定打となり、鈴音は無意識に目を見開く…。
そんなわけが無い。そう信じたかったのかもしれない。その声に気が付いた鈴音は、自分の後方へと急いで体を振り向かせる。すると、そこには…
「ぁ、あぁああぁッ!」
真っ黒な闇に包まれた人型の物体。人影ともヘドロとも言い難い、謎の物体だ。だが、確かにそれは言葉をしゃべり、動き、鈴音を見ていた。
「う、うそだ…そんな…。」
驚きのあまりに体を仰け反らせ、椅子ごと床に倒れる。腰に力が入らない。両手でお尻を引きずらせながらその物体から距離を取ろうとする。
「なァ、待ってくれよ。逃げんじゃねェよ。」
「い、いや!やめて!来ないで悪魔!」
「悪魔ァ…よく知っているなァ。正解だよォ、クククッ。」
そう、鈴音の目の前にいるのは悪魔という存在だ。
この世には悪魔というものが存在する。悪魔は人と契約を結び、そしてその契約の元に行動を起こすと噂では言われている。時には殺人事件なども起こり、警察を中心に、国を上げて捜査を行っている最中だ。だが、そんな悪魔が目の前に来てしまった。
「なァ、お前ェ、さっきコンクールに優勝したいって言ったよなァ。」
「コンクールに優勝…いつから居たの!?」
「ククッ、まぁそう驚くなァ。」
いつから居たのかと戦慄する鈴音に対して、面白おかしく笑う悪魔。不敵な笑みというのはこのことを指すのだろう。
「どうだァ、ワタシと契約してみないかァ?ワタシと契約をしたらァ、必ずやコンクールを優勝に導いて見せよう。どうだァ?」
「コンクールで優勝させてくれるの…?」
「あァ、そうだァ。どんな手を使ってでもお前を優勝させてやるゥ。悪魔は契約を必ず守る…きぃたことあるだろォ?」
確かに、噂程度ではあるが悪魔は本人の願いを叶えるために行動をすると言っていた。問題となっている悪魔による殺人事件だが、ニュースで取り上げられた専門家は、その過程で人を殺してしまうだけなのだとも語っていた。
そして、私の夢はコンクールに優勝すること。コンクールの優勝をするだけならば、人を傷付けることもなく、目標を達成することができるのではないのか。正直、地域ごとのコンクールを優勝できるかも5分ぐらいの勝率感覚であるし、悪魔の力を借りられれば、今より簡単に事を進めることができる。母への手向…これは仕方の無いことなんだ。
「怖かったら仮でもいィ…。ワタシはお前の力になりたいんだァ。」
「仮契約…わかった。契約をする。どうすればいいの?」
「ォ、物分りの良い奴だなァ。嫌いじゃないぜェ。じゃァ、手を出しなァ。」
悪魔と手が重なり合う。
こうして、一人の悪魔契約者が誕生した。
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