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散らばる真珠
耳元でぷつ、と何かが切れる気配がした。
「あ……っ! そ、そん……」
背後の侍女が悲鳴に近い声を上げた瞬間、身体の上をぱらぱらと白い珠が解け落ちる。
カシャン、カラ、カラン、コロ……
丹念に磨き上げられた飴色の床を大小さまざまな大きさの真珠が四方に飛び跳ねながら転がり散っていくのが目の端に映った。
装飾職人によって技巧の限りを尽くし丹念に編まれた総真珠のチョーカーが一瞬のうちにただの糸となりだらりと残骸が首に下がる。
香水やおしろいの甘い香りの漂うドレスルームに重い沈黙が落ちた。
居合わせた者は十人近くいたが全員が石のように固まって動かない。
「ああ……」
鏡台に座る女性が軽く息をつく。
凝った意匠の淡い空色のドレスを数人がかりで着付け、化粧も髪も完璧に仕上げられ、最後にチョーカーを装着して出来上がりの筈だった。
役目をしくじった侍女はぶるぶると震えながら床に両手と額をついて叫ぶように謝罪する。
「も、申し訳ありません、お嬢様! 私の不注意で、なんてことをっ、どうか罰をお与えください!」
専属侍女になり着付けを担当するようになって一年は経つ若い女の後頭部をじっと見おろし、ゆっくり口を開いた。
「お前のせいじゃないわ」
膝の上に揃えた指先すらぴくりとも動かさず、じっと鏡台に映る自分を見つめたまま令嬢は答える。
「で、ですが……」
土下座をしていた侍女がおそるおそる顔を上げると、鏡の中の主と目が合い、ひっと息をのんだ。
限りなく黒に近い紺色のまつ毛に縁どられた黄金の瞳はまるで人形のようにぽかりと開いたまま。
照明の光を受けて無機質に輝いていた。
「みな、お下がり」
深く柔らかな音だが、何の感情ものせられていない声が静かに響く。
怒りも、落胆も。
彼女の表情と声から推し量ることは到底できない。
「で、ですが……」
一番年かさの侍女がおそるおそる反論すると、身じろぎ一つしないまま応えた。
「このままで良いから。気持ちを切り替えたいの」
この場で女主人の言葉は絶対である。
「は、はい……」
全員が深く一礼した後、床に散らばる真珠を踏まぬよう目を配りながら一斉に退室した。
扉を静かに閉じる瞬間までも。
彼女は動かない。
エステル・ヘイヴァース公爵令嬢。
この日、十八歳の誕生日を迎えた。
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