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父の不在
「ありがとう。これで面目もたつでしょう」
生活魔法が得意な侍女が主の指先の細工を乾かすと、目を細め赤く塗られた唇をゆったりとほころばせた。
「は……」
一瞬、間近に見たエステルの微笑みに思わず見とれた侍女は、慌てて両手を腹の前で揃えて頭を下げ、その姿勢のまま後退り壁際へ戻る。
「お嬢様」
クララが手を差し出すとエステルはそれに美しい手を重ね、すっと立ち上がった。
しゃらり、と、髪に挿した金細工が音を立てる。
エステルの立ち姿は圧巻で、侍女たちは息をのんだ。
縦襟から背中を通り腰まで添わせたローブは後ろに伸びた裾のトレーンとともにエステルの細くまっすぐとした背中をより美しく見せている。
とても、亡き人の衣装だったとは思えない。
袖も裾の長さも全て採寸して最近仕立てたかのようにぴたりと合っていた。
だがしかし、今の流行からは大きく外れる意匠だ。
脱ぎ捨てたドレスこそ最先端と言われるもので、今夜は全員が色と装飾は違えども老いも若きも肩と胸元を露わにしてコルセットでウエストを締め付けつつも胸を上に押し上げて谷間を強調し、クリノリンで大きく膨らませたスカートで参加することだろう。
それに対し顔と指先以外暗い色のローブで覆い隠したその姿は禁欲的過ぎてまるで寡婦のようだが、髪にちりばめられた金細工と化粧がそれを裏切る。
自然と彼女の顔へと視線が集まる装いだ。
蛮族の女。
闇色令嬢。
王都の貴族たちは蔑み、その髪ですら目に入れれば穢れたと嗤いあった。
しかし今のエステル・ヘイヴァース公爵令嬢を見て、彼らはどう思うのか。
「行くわよ」
クララの手を放し、つと顎を上げて歩き出す。
扉を開けさせて廊下に出た時、控えていた護衛騎士や家令たちはいちように驚きの表情で目を瞬かせた。
「エステル様」
扉を守っていた護衛の一人であるデイヴが手を差し出すと首を振った。
「エスコートは不要よ。父上が不在である以上、ここから一人で行くわ」
当主エイドリアンは現在、領地へ赴いたきり動けない。
原因は一月前に妻子を伴い領地視察へ赴いた際、落石事故に遭ったためだ。
幸い、エイドリアンが足を折るのみで済んだが別件が重なり娘の成人祝いに戻れなくなった。
後妻であるポーラと彼女が産んだニコラスが先に戻ることも考えられたが、相次ぐ不審事に公爵邸より出ない方が安全というのが家臣たちの総意であり、それを受け入れた。
しかし、勇猛で名を馳せているエイドリアンの不在はあらぬ疑いを呼び、あっという間に噂が広がった。
骨折ごときでたかが数日の道のりを戻れないなどと、ありえない。
もしや、不治の病でも抱えているのではないか。
もしくは、既に亡くなっているのではないか、と。
以来、この王都邸もどこか浮ついている。
このドレスルームのささやかな悪戯など、可愛いものだ。
公爵令嬢と言う地位ですらいかに脆いものなのかをエステルは痛感した。
だからと言って、屈する気はさらさらない。
簪のたてる微かな音を楽しみながら、エステルはゆったりと階段を降りていく。
戦う支度はできた。
私は、負けない。
籠の鳥たちなどに。
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