舌戦

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舌戦

「私の身体を見たことがある人は……。そうね、だいたい五十四名と言ったところかしら」  ざわりとまたさらに人々はざわめく。 「詳しく言うならば、公爵家で三十一名、王宮で二十三名」 「なんだ、そのとんでもない数は! 聞いていないぞ、エステル!」  なぜか顔を真っ赤に染めてジュリアンが怒鳴る。 「私が生まれてから今朝までの、入浴の介添えをした者たちだけならこの数です。ドレスルームでの着付けや採寸となるともっと多くいるでしょうね」  くるりと周囲を見渡し、首をかしげて見せた。 「貴族と名の付く人間の多くは使用人たちなしでは入浴も着替えもできないと思っていたのだけど。それは私の思い違いかしら?」  全てを使用人にゆだねるのは高貴な者の証。  身の回りのことを己で片づけるのは平民、もしくは使用人が雇えない程落ちぶれた貴族のすることだ。 「言われてみれば……」  誰かの呟きがぽつりと落ちて、また人々はひそひそと囁き合う。  直接触れるのは上級侍女や従僕。  しかし、湯を足したりリネン類を取り換えたりするのは下級侍女たち。  貴族たちは使用人たちの視線を人として意識していないことが通常。  よほど警戒しない限り、様々な者の目に自信を晒している事となる。  はっきりと人数を挙げられるエステルはまだ心を配っている方なのだ。 「なので、この男と私がねんごろになった証拠にはなりませんわ」  エステルの言葉に、高位貴族たちを中心に非難のまなざしがデイヴ・バリーへ降り注ぎ始め、彼は知らず一歩下がった。 「それにしても、私の身の回りの世話をする侍女は全て身元が確かな者。そうなるとどなたが漏らしたのか……気になるところですわね」  公爵家、そして王宮の第三王子婚約者に侍る者は全員、伯爵以上の身分で構成されている。  主人の秘密漏洩は法に触れ、厳罰に処されるきまりだ。  もし特定された場合、その者の生家もしくは姻戚は取り潰しになる可能性が高い。  関わりのある者たちが動揺し始める。  もちろん、居合わせたバリー伯爵家の一門もだ。  このままでは、デイヴの巻き添えを食って処刑されてしまう。  彼らは人々の視線がエステルとデイヴ、そして第三王子たちへ向いていることを幸いにこっそりと大広間を抜け出そうと画策し始めた。 「詭弁を弄して聴衆を惑わすな、この女狐め!」  形成が不利になってきたことを感じたジュリアンが言いつのろうとしたその時、エステルはぴしゃりと言い放った。 「良いでしょう、殿下。ならば私、ヘイヴァース公爵が娘エステルは神聖裁判による処女検査を申請します」  人々は驚きの声を一斉に上げた。 「な、な、なにを……。お前は。お前はいったい何を口にしたかわかっているのか!」 「もちろん、存じております。だからこそご提案しているのです」  神聖裁判による処女検査。  それは、令嬢のみに科される屈辱的な検査だ。  嘘が許されない神聖結界が張られた中、覆いはかけられるものの法廷の真ん中で数人の立会人に足を開き処女の確認がなされる。  基本的に未婚の女性は初夜まで処女を守ることが貴族のきまりだが、たとえ己の名誉のためと言ってもそんな裁判を女性自ら申請する勇気を持つ者はいない。  衆人環視の辱めを受けるも同然だろう。  この神聖裁判は聖人教会と魔導士庁が執り行い、署名宣誓した者がもし虚言を行った場合、呪術が発動し、事によっては死に至る。  要するに、エステルは己の無罪は揺るがないと宣言したのだ。 「私が誰かと肌を重ねるなど……ありえません。唇ですら、どなたとも触れたことがないというのに」  赤く塗られた唇にそっと指先を這わせ、ゆるりと目を細めてエステルは微笑んだ。 「…………っ」  彼女の正面にいた者は皆、ジュリアンを含め思わず息をのんだ。  公女がまとっているドレスは確かに首から手の甲そして床に流れるトレーンまで濃紺のローブに覆われている。  しかしそれは細かに編まれたレースでシャンデリアの光のせいで、下に着ている黒いビスチェと白い肌の境目を逆にはっきりと強調させ、男たちの視線を釘付けにした。  猛禽の爪のように尖った爪は魔女のように青く塗られていたが、落とし込まれた小さなパールはどこか甘さと清純さをかもしだし、赤珊瑚のような色のぽってりとした唇と同じ色の紅を涼やかな目じりにさっと引く独特の化粧は、かつてなくエステルを妖艶に見せている。 「側妃アリーヤ……」  年かさの者中の一人が熱に浮かされたようにエステルを見つめた。  もはや先王の世代から生きている者しか覚えていない、側妃アリーヤ。  彼女は突然この国に現れ、それまで国の安寧のために王妃以外に側室は設けないと公言していた王の心を惑わせ、子を成した。  砂漠に埋もれた国の王女と言われてもこの王都からはとてつもなく遠い地で、定かではない。  ただの流民と貴族たちはこぞって蔑んだが、つい惹かれてしまう何かが彼女には存在した。  どこか歌うような発音でこの国の言葉を話し、所作もまるでふわふわと羽のように軽くしなやかで、優美だった。  金色の瞳は空で光る星。  つやつやと流れる闇色の髪は陽の光の下ではとアイオライトのように輝いた。  少し黄色かがったクリーム色の肌はきめ細やかでみずみずしい。  交易で色々な民の血が混ざったらしい目鼻立ちはどこかあどけなく、少女のような若々しさがいつまでも保たれ続けた。  素直に美しいとは、王妃の手前誰も口に出来なかった。  蛮族、と侮りながらも目が離せない。  今、この場で何百人という貴族に囲まれていながら、孤軍奮闘している公女のように。
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