切り札 ※残酷な表現が終わり近くにあります

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切り札 ※残酷な表現が終わり近くにあります

  「ジュリアン様……」  腰に回していた手にそっと頼りない指先を重ねられて、ジュリアンは我に返る。  そして、自分が階下のエステルに見とれていたことに気付いた。 「オリヴィア……」  最愛の女が目を潤ませ、すっと彼の手を少しだけ中心へ導いた。  ああそうだ。  今夜のこの場をなんとしても成功に導かねばならない。  そのために多くの者が協力してくれているのだ。  あの悪女に台無しにされてたまるものか。  ジュリアンは頭を軽く振り、オリヴィアに微笑みかけた。 「きみを不安にさせてしまったな。すまない」  そして額と額を合わせた。 「この名にかけて誓おう。必ずや我々の愛を成就させると」 「うれしい……」  愛を語り合う恋人同士を冷めた目で見る者はけっしてエステルのみでないことに幸せの絶頂にいる二人は気づかない。 「殿下」  側近の一人がジュリアンのそばへ寄りひそりと話しかけた。 「うむ。ご苦労」  鷹揚に頷いた後、オリヴィアの額に口づけを落とし、囁く。 「そなたはここで見ているがいい。あの悪女の最後を」 「ジュリアン様。どうかお気をつけて。あの方が何をなさるか……私は不安でたまりません」 「大丈夫。今夜のためにいくつもの策を用意した。その一つが今届いた。決定的証拠となる。あれはもうお終いだ」  オリヴィアの手を取り指先に口づけながら、笑いをかみ殺した。 「では行くぞ」  側近たちを従えて、バルコニーのそばにあるカーペットを敷かれた階段をジュリアンはゆっくりと降りていく。 「何も貴様の罪は不貞行為だけではないから安心するがいい、エステル。まずは、オリヴィア・ネルソン侯爵令嬢に対する陰湿な嫌がらせと陰口の吹聴。私の眼を盗んで行っていたようだが、証拠はそろっている。オリヴィアを社交界で孤立させ、取り巻きを使ってドレスを汚したり、男に使って襲わせて傷ものにしようと目論んだらしいな」 「事実無根です」  エステルは眉一つ動かさずにジュリアンの発言を即座に否定した。  しかし、彼はなおも侮辱交じりの追及を続ける。 「それに贅沢三昧。今夜のためにわざわざ『私の色』の衣装を誂えて贈ったというのにどうした?カラスのように奇抜ななりで現れて、かなり浮いているじゃないか。貴様は本当に目立ちたがりだな。注目されていないと気が済まない腐った性根だ」  『カラスのように奇抜な』とジュリアンが指摘したことに、年かさの貴族たちは動揺した。  あれらは王女レイラが降嫁する直前に行われた国王主催の送別会のために、今は亡き先代の国王自ら選び時間をかけて作らせた最高級のドレスと装飾品だ。  しかもその姿を先王は絵師にいくつも描かせ、一枚は今も回廊に飾ってある。  王太后への配慮で人はめったに通らぬ位置にあるが、宮殿を訪ねた者なら誰もが一度は目にしている。  椅子に座る王と寄り添って立つ娘レイラの美しくも仲睦まじい、巨大な油絵を。 「殿下はずいぶんと変わった趣味をお持ちでしたのね。今まで私は存じませんでした」 「なに」 「まさか王宮での正式な夜会の場で、国が決めた婚約者と愛人を、そっくりな衣装で侍らせるのが今夜の趣向だったとは」  固唾をのんで二人の舌戦を見守っていた観衆たちはまたもやざわめく。  この場に招かれているのはこの国の貴族だけではない。  国賓や大使も多数出席しており、今夜の話は即座に母国へ報告がなされるだろう。 「愛人だと? 貴様のそういうところが――」  怒りに我を忘れ、詰め寄ろうとしたジュリアンを側近たちが前にまわって押しとどめる。 「殿下。殿下、どうかお静まりを。例の物が到着いたしました」  動揺していたのであろう。  囁きにしては大きな声は、エステルの耳にまで届いた。  しかし、たちまち機嫌が直ったジュリアンは何事もなかったかのように背筋を伸ばす。 「証拠とやらが何よりも好きなエステルよ。お前のために側近が急ぎ手に入れてくれたものがある。受け取るがいい」  ジュリアンの側近のひとりである騎士が宝飾品の入る程度の木箱を持って現れ、エステルの前に跪いて差し出した。  粗末ではないが、捧げ持つには簡素な箱。 「そのままお前が開けなさい」  扇で口元を隠し、命じた。 「は。しかし……」  段取りが違うのだろう。  困惑した視線を階段へ向ける騎士へ、ジュリアンは「構わん」と頷いた。 「では失礼いたします」  跪いた姿勢のまま彼は箱を開けて見せた。 「きゃあああ――っ!」  箱の中身が見える方角にいた貴婦人の一人が、中にあるものが何か認識した瞬間、悲鳴を上げて倒れた。  その婦人を慌てて介抱する者、同じく動揺する者、何が起きているのか知りたい者たちもうごめいて、あっという間に蜂の巣をつついたような騒ぎになる。 「人の手、ですわね」  箱の中身を凝視したまま、ぽつりとエステルは言葉を発した。 「それで。これが何か?」  顔色一つ変えない公爵令嬢に、ごおおおとざわめきが巻き上がる。  興奮した人々の熱気が大広間を異様なものに変えていき、一部の女性たちは体調を崩して退出しようとするが、好奇心に駆られた者たちには逆に前へ出ようとし、女性をかばう伴侶たちともみ合いになり怒号が飛び交い始めた。  何かが落ちて壊れる音。  貴婦人の悲鳴と、誰かが倒れる音。  配置された騎士たちや従僕たちが場を収めようとあちこちから現れるが、収拾がつく筈もない。  美しく飾られた夜会はめちゃくちゃで、国を揺るがす醜態だ。  それにもかかわらず、その最中もジュリアンの頭の中はエステルの断罪でいっぱいのまま。  頬を染めて目を輝かせながら叫ぶ。 「それがきさまの本性だ、エステル! 残虐な悪女め」  手を振り上げ、近衛兵に指示を出した。  本来なら招待客の安全を優先させるべきであるはずにもかかわらず、無抵抗の公爵令嬢を捕縛せよと命じている。  誰か。  彼をいさめ、場を収めるべきでないか。  そう思うものは多くいた。  しかし、一方でこうも思うのだ。  これは王家の総意ではないか。  王太后は側妃の孫を憎んでいる筈。  招待客で最高位なのが公女エステルで、王族も他公爵家も臨場していないのが何よりの証拠なのではないか、と。  躊躇している間に、ジュリアンはますます暴走した。 「その女を捕らえよ! 伯爵令嬢ジェニファー・コーラル殺害容疑だ!」  その名を聞いて複数の人々が悲鳴を上げた。  コーラル伯爵一門の者であろう。 「ジェニファー・コーラル……」  喧騒も、王子も見ることなく、箱の中に目を向けたままエステルはため息をついた。 「やはり、お前は殺されてしまったのね」  ドレスルームで土下座をした侍女。  真珠のチョーカーを扱い損ねた、不器用な少女。  コーラル伯爵の三女、ジェニファー。  彼女は、捨て駒。  そして、もう--。  この世にいない。
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