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 自転車を漕ぐ時間は1時間をとっくに越えた。疲れからペダルを踏む足が絡まる。サドルにつけていて尻が痛い。もうダメかと弱音を吐きたくなる。だが、俺を信じて、後ろに捕まる竹子さんに答えたかった。スマートフォンで場所を確認しながら進んでいく。やがて、当たり前にあるコンビニよりもホテルが多い場所へ着いた。空は夕焼け色に染まりつつある。月が登り始めているかもしれない。自転車でいくつもホテルを横切ると、突然開けていった。視界に広がる群青色の海。そして、そのすぐ真上に浮かぶ満月。俺は土手に自転車を止め、竹子さんを下ろす。 「あれが君の言っていた場所なのか」 「この潮の香りは、たぶん」  彼女は頷き、海の方へ進み始めた。営業外のため、海にはは一人もいない。立ち入り禁止のフェンスも越えていく。サンダルに砂が入り、小石が刺さって足が痛んだ。しかし、彼女の目的を果たすため、俺は黙ってついていく。  あと、一歩で海に浸かり始めるところまで到着した。すると、突然波が静まり反射した満月の光がはっきりと映る。それはとても長い楕円形に伸びて煌めく一筋の白い道を生み出した。 「やっと帰れるな。よかったじゃん」  竹子さんに声をかける。そうですね、と答える彼女は唇を噛みしめていた。鼻もすすり始めて今にも……。 「泣きたかったら泣いていいぞ」  俺は彼女の顔を見ないように胸を貸す。小さな頭が俺の肩辺りに置かれた。声を震わせながら、竹子さんは口を開く。 「地球の人間は恐ろしいと月で言われ、実感しました。でも、あなたは本当に良い人です」 「ありがとう。それだけで幸せだ」  涙声にこちらもつられて、もらい泣きしそう。でも、俺は笑って見送らないと。彼女を撫でようと手を伸ばしたそのとき、髪を触れる前に動けなくなった。まるで、自分だけ時間が止まったように身体が痺れる。彼女の頭が当たる感覚もあやふやになった。浜辺側にいた俺が海に視線を送ると、月の道から2人の女性が歩いてきた。 「姫様。よくぞここまでご自分で戻ってくることができました」  目の前に絵に描いたような天女が現れる。片方は半透明の布を持ち、もう片方は小さな壺を持っていた。 「お父様がその様子をご覧になって、とても喜ばれました」 「罪もお許しになったので、この汚らわしい地球にいる必要はありませんよ」  天女の二人は初めて会った竹子さんのように無表情で言った。足元をよく見ると、少し浮いている。そんなに踏みたくないのかよ。文句を言いたかったが、声も出なかった。 「その未熟者から離れ、薬を召し上がって羽衣をお召しになって」  2人はそれぞれ手に持っていたものを差し出す。竹子さんが俺を見た。涙のあとが頬に残っている。動けるなら今すぐにでも拭ってやりたい。でも、彼女はそのまま俺に背を向ける。 「姫様。地球の食べ物はさぞ不味かったでしょ。この薬でお清めください」 「姫様。地球で過ごす日々はとても辛く苦しかったでしょう。この羽衣をお召しになれば全て忘れることができますよ」  動けないからってあれこれ言いやがって。頭の中では暴れているつもりなのに、身体は止まったままだ。一方、竹子さんは薬に手を伸ばしていた。彼女にとって、結局地球は嫌なところだったかもしれない。それならここでのこと、俺との思い出も忘れた方がいいのかも。俺は忘れられていくのが耐えられなくて、目を閉じた。すると、陶器が砕けるような音がする。目を開けると、竹子さんの足元に持っていた壺が落ちて割れていた。もともと持っていた天女の顔が驚きで歪む。もう一人の天女が声をかける間もなく、竹子さんは持っていた羽衣を奪い、海に投げ捨てた。 「確かに嫌なこともあったことは事実です。しかし、良いこともたくさんありました。来たこともないのに、決めつけて、私の素晴らしい思い出を消そうとしないでください!」  彼女が語気を強める。天女たちは驚きで言葉も動きも固まってしまった。いいぞ。俺も固まったいたが、内心はとても応援していた。ふと、竹子さんはこちらに振り向く。よく見ると手には買ったべっこう飴が握られていた。 「三門様、本当にありがとう」  竹子さんはべっこう飴を口に含み、美味しいとばかりに笑顔になる。そして、月に向かって伸びていく白い線に足を踏み出した。沈むことなく道を踏みしめていく。彼女がある程度進んだところで天女たちの驚きが覚め、姫様と何度も呼びながらついていった。長い黒髪の後ろ姿がだんだん遠くなっていく。水平線の彼方に消えていく頃には月が登り道は消えてしまった。  俺もいつの間に動けるようになっている。力が入っていたせいか、身体が痛い。ふと、ポケットにはべっこう飴が残っていた。俺もそれを口に含む。その味に頭には今日のことが思い出される。竹子さんを助けたこと、べっこう飴をたくさん買ったこと、電車や自転車に乗ったこと……。それが濃縮され、零れていく。 「……なんかしょっぱいな」  俺は海の上に浮かぶ満月を見上げていた。
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