どうってことない

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「彼女が来るのか? いつ頃帰ってくればいい?」 「もう来ないでくれ」  俯いて話す森を見て、久幸は話す言葉が見つからなかった。 「済まん。だけどしょうがないんだ」 「わかった。ありがとう。世話になった」  久幸はそのまま部屋から出ていこうとする。持っていく荷物も、どこへ行くという当てもない。  森は下を向いたまま、部屋を出ていこうとする久幸に話しかけた。 「岡本清美は覚えているか?」  久幸は立ち止まって振り返った。 「岡本? 二年前に会社を辞めた?」 「そう」  森はそう答えたまま黙り込んだ。そのまま話し出そうとしないので、仕方なく久幸が話す。 「確か、お前と付き合っていたよな」 「今でも付き合っている」 「かわいい子だったよ。彼女が来るのか?」  そう言って久幸は再び歩き始める。 「清美はあんたのことが好きだった」  森は久幸を引き留めるように話し始めた。 「ん?」  久幸は立ち止まり、森を見る。 「あんたに相手にされなくて、どうにも居たたまれなくなって会社を辞めた。俺と付き合っていたのだって、少しでもあんたに近付きたかったからだ」  久幸を見る森の目は涙を溜めていた。  久幸は森を見られずに部屋の天井を見た。 「清美は今でもあんたのことを忘れられずにいる。まだ愛しているんだ。あんたのことを話したら、すぐにでも会いに来たいと言った。電話の向こうで泣き出して、あんたに会いたいって。俺はどうすればいい?」 「今まで通りやれよ。そのうち彼女の心もお前に向くだろう。俺はもういないから。お前の前にも二度と姿を見せない。・・・・今度のことは本当に感謝してる。じゃあ」  久幸は部屋を出ていった。 「下駄箱に傘がある。どれでも好きなのを持っていけ」  姿の見えなくなった久幸に向かって森が大きな声で言った。 「いいよ、どうせ返しには来られないんだから」  ドアの閉まる音がした。  雨はしとしと降り続いている。  久幸は上空から降り注ぐ雨を見ていた。  やがて両手をポケットに突っ込んだ久幸は雨の中を歩き出した。  濡れそぼった久幸は駅の公衆電話に十円玉を入れた。  ダイヤルボタンを押す。  しばらく呼び出し音が続いたが、相手は出ない。  久幸は諦めて別のダイヤルボタンを押す。 「もしもし?」  母の携帯に電話をしたつもりだったのに、男の声が出た。 「あ、すみません、弘子の携帯でしょうか?」  久幸はかけ間違えたと思ったが、取りあえず確認した。 「そうです」 「弘子は?」 「おたくはどなた?」  相手は質問を返してきた。 「私は息子の久幸ですが」 「ああ、久幸君。おじの弘志だ。久しぶり」 「あ、御無沙汰しております」 「弘子は今朝、事故に遭って病院に運ばれた。今、入院しているんだ。俺も弘子の病室にいて、代わりに話している」 「ええ? 母は大丈夫ですか?」  久幸は驚いて尋ねた。 「さっき手術が終わって、今は寝ているところだ」 「どんな様子です?」 「さあ、俺には詳しくはわからない」 「急いで帰ります」 「そうしてくれ」  久幸は電話と切ると、急いで切符売場へ向かった。
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