どうってことない

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 喫茶店の窓際の席に松下が座っている。  ウエイトレスがコーヒーを運んできて松下の前に置いた。  久幸が入ってくると松下を見つけ、歩いてくる。 「おう」  久幸が声をかけ、松下はぺこりとお辞儀をする。 「どうした」  久幸は椅子に座りながら尋ねる。 「スマホ、新しくしたんでしょ? 電話に出てほしいんです」 「出ただろ?」 「僕からの電話じゃなくて、有希からの電話に」 「用事があるなら部屋の電話に掛ければいい」 「河口さん、あんまり家にいないじゃないですか。留守番電話じゃ話ができないって言ってます」 「田中がそう言っているのか?」  田中は有希の名字で、久幸は有希のことを田中と呼んでいる。 「そうです。河口さんだって、有希の気持ちは知っているでしょ。ちゃんと応えてやってください」 「駄目だ」 「どうして?」 「俺は恋人と別れたばかりだって言っただろ。そんなに器用な人間じゃないから、簡単に心の中をコロコロ変えたりなんてできない」 「変えてください。有希がどれほど河口さんのことを想っているか、考えてみてください」 「いいか、その前に俺はお前に言っておきたいことがある」 「お節介が過ぎますか?」 「そうだ。俺は確かに田中とは距離を置いている。田中はいい娘だ。性格も容姿もいい。だけど俺は田中のことを好きになれないと思う。それは俺がまだ菜々実のことを愛しているからだ」 「もう別れたんでしょ?」 「俺から別れを切り出したわけじゃない」 「じゃ、その人とよりを戻すつもりですか?」 「わからん」 「別れた人のことなんて忘れてください」 「忘れない。それよりもだ、俺が言いたいのは、お前はどうなのかだ。お前が田中のことを好きなのも知っている」 「え」 「そうだろ? 俺を田中に振り向かせるのじゃなくて、田中をお前に振り向かせてみろ」  その言葉に松下は俯く。 「俺はなあ・・・・気障っぽい言い方になっちまうけれど、今、心の中には菜々実しかいない。あいつはそう簡単に心の中から出ていってくれないんだ。だから他人の入り込む余地はない」 「はい」 「また落ち着いたら電話する」  久幸はコーヒーの残りを飲んで立ち上がる。 「就職、いい所があったら俺にも紹介してくれ」 「そんな」  久幸は伝票を持って歩き出すが、何かを思い出したように立ち止まり、振り返る。 「そうだ、また車を買ったらドライブに誘うから、今度こそ付き合え」 「は? はい」  久幸は会計を済ませて店を出ていった。 「あれ? 車を買ったら?」  松下は通りを歩いて遠ざかっていく久幸の後ろ姿を見ながら考え込む。  菜々実が部屋で写真立ての写真を見ている。  写真は久幸の家にあったのと同じ二人が笑顔で写っている。  しばらく眺めていた菜々実はやがてその写真立てをぱたんと倒す。  部屋に帰ってきた久幸は手にしたハンバーガーを頬張りながら留守番電話の再生ボタンを押す。 「下平自動車の村上です。車の廃車手続きのことでお話があります。昼間に電話下さい」 「松下です。今日はありがとうございました。仕事や有希の事を真面目に考えて、自分なりに答えを出して行動していきたいと思います。携帯では話しにくかったのでこちらに電話しました。それから車を買うとか言っていたような気がするんですけど・・・・ま、いいか。また連絡します。それでは失礼します」 「菜々実です。電話して下さい。待っています」  相変わらす菜々実からの伝言は短かった。携帯のほうにも着信があったが、何となく気が重くて出ることができずにいた。  菜々実は何を話すつもりなのだろう。もう一度会ってきちんと話をすべきだろうか。  久幸はそんなことを考えながら、最後のハンバーガーの一切れを口の中に放り込んだ。  夕闇が迫る住宅街の菜々実の家の前に、若くて爽やかな感じの男が立ち、インターフォンのボタンを押した。  ドアが開き、菜々実が姿をみせる。  男を見た菜々実の顔にぱっと笑顔が広がった。 「どうも、こんばんは」  男が見かけと同じように爽やかに言った。 「こんばんわ。ちょっと待っててね」  菜々実の姿が消え、ドアが閉まる。
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