3人が本棚に入れています
本棚に追加
あと三日。
三日後の手術さえ無事に終われば僕たちの幸せな生活がこの手の中に帰ってくる。
”あの凄惨な事故から十年が経ちました。豪華客船スプレ号が……”
アナウンサーの言葉を最後まで聞き終わる前に僕はニュースの通信を切った。毎年この日に流される、誰もが知っているスプレ号の事故。今年は十年目ということで例年以上に取り上げられていてどこもかしこもこの話題で溢れかえっている。
しかし今の僕はこの世界に存在する全ての暗い出来事から距離をとっておきたい。悪いことに触れる時間が長ければ長いほど、僕の大切な人に及ぼす悪い影響がどんどん濃くなっていくような気がするから。
「おはよう。調子はどう?」
病室に入った僕はベッド横にある椅子に腰掛けると彼女の顔を見ながら声をかけた。妻のサクが入院して一週間。これが新しくなった僕のモーニングルーティーン。
「おはよ。さっきまでちょっとしんどかったけど、今はだいぶマシかな」
青白い顔を僕のほうに向けた彼女は僕を安心させるように微笑んだ。
「そっか。良かった。手術まで後三日。頑張ろうな」
「うん。この手術が成功すれば私、元気になれるんだもんね」
彼女と見つめ合いながら僕は何度も頷いた。三日後の手術を受ければ彼女の不調は全部取り除かれる。今の医療技術なら、彼女の病気は手術で確実に根治可能なのだ。だから後三日。何事も無く過ごせますように。そう願いながら僕は彼女の頭をそっと撫でた。
僕の手の動きに添って彼女の長い髪の毛がサラサラと揺れる。彼女の温もりを感じていると、なぜだか分からないけれど僕の頬をつーっと涙が滑り落ちた。
「何泣いてるの?」
「わかんない」
「手術したら治るんだよ?」
「そうだよね。おっかしいなあ」
そう言いながら彼女の頭から下ろした手で僕は涙を拭い去る。失敗することなどまず考えられない今回の手術。しかも確実に彼女の病気は治るということが保障されているのにどうして涙なんて。
「手術が怖いのかな」
考えるようにそう言った僕を見て彼女がクスっと笑った。
「変なの。手術を受けるのはあなたじゃなくて私。その私が怖いなんて思ってもないのに。それに、今回が初めての手術じゃないってあなただって知ってるじゃない」
「そうだよね。ごめんごめん」
僕も涙目で笑いながら彼女にそう答えた。
手術を受けたことがない僕とは違って彼女は今回の手術が初めてじゃない。左目の治療で一回。両足の治療で一回。そして今回の心臓で三回目。だから手術自体を怖がることもないし、手術を受けることに関して希望しか持ち合わせていないのだ。
「確かに今までは命に関わらない部分ばっかりだったし、ちょっと怖いって思う気持ちもわからなくもないけどさ。でも今回と同じ手術が失敗したのってもう百年以上前のことだっていうじゃない?だから大丈夫だよ。って何で手術を受ける私があなたのことを安心させようとしてるわけ? 普通は反対じゃないの?」
「ホントだよね」
僕たちは顔を見合わせながらふふっと笑いあった。
こんなたわいもないやり取り。彼女との幸せな時間。今も。昔も。これからも。こんな時間がずっとずっと続くものだと僕は疑ったことなど一度だってなかった。
最初のコメントを投稿しよう!