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俺の自宅が、もう、目の前に見えている。タイムリミットだ。
『ありがとな。こんなところまで送ってもらって』
背の高い鈴の顔を見上げる。名残惜しい。昼の太陽ではなくて、暗い夜の中に浮かぶ三日月のような鈴。泣きたくなるくらいに綺麗で、鈴の表情を、もっと見ていたい。
けれど、これ以上鈴の時間をもらう理由が思いつかなかった。
『いや。いいんです。好きでやってるんだし』
俺の思いに気付いたわけでもないと思う。けれど、鈴は言ってくれた。それは、言い換えれば、好きでやってるからまた、会ってくれるということなんだろうか。
そうだったら嬉しい。
『でも。明日も迎えに来てくれるなんて。やっぱ、申し訳ないし』
嬉しいからこそ、間違ってはいけない。
この距離を間違えなければ、一緒にいられる。
ようやく、少しだけ、俺も、平静を取り戻すことができたのだろう。本当は迎えに来てほしい。というか、会いたい。けれど、面倒はかけたくないから、言った。
『あ。じゃあ。一つだけ。俺の、お願い、聞いてくれますか?』
俺の言葉に、少し思案気な表情になって、それから、細くて節が高い指を一本立てて見せて、鈴が答えた。
『なに?』
その仕草だけで鼓動がまた、早くなる。冷静に考えられなくなってしまう。
『LINEのID教えてもらっていいですか?』
『え?』
鈴の言葉に俺は、呆けた。そういえば、連絡先を交換していなかった。利用者登録をしてもらっていたから、忘れていた。
『あ。いや。明日、家出るときに連絡入れるんで』
少し目元が赤いような気がするのはきっと、通り過ぎた車のテールランプのせいだ。若干、”明日”のところで噛みかけたのもきっと、気のせいだ。
『あ。うん。そか。わかった』
仕事用のトートバッグからスマホを出して、ラインを立ち上げる。それから、同じくスマホを出した鈴とIDを、交換した。きっと、鈴がものすごく嬉しそうに見えるのも、俺の願望を反映しているんだろう。きっと、そうに違いない。
『今度は。お礼するから。その。飯でも行こう』
けれど、その表情に後押しされて、少しだけ、俺は鈴に近づいてみることにした。友達としてでも、これくらいなら許される。はずだ。
『いいっすね。寿司とかがいいです』
そしたら、一瞬。驚いた顔をしてから、また、鈴が嬉しそうに笑う。俺の言葉が鈴を喜ばせたのが嬉しくて、俺の方も素直に笑えた。
『はあ? 厚かましすぎ』
冗談まで言える。
きっと、こうやって、やっていけばいい。これでも、充分に幸せだし、充分に楽しい。
『はは。じゃ。今日は帰りますね』
これでいいんだ。と、自分に言い聞かせる。
帰ってしまう鈴に、”また”と、言える。
手を振って応えると、鈴もスマホを持ったままひらり。と手を振った。
『なんかあったら連絡ください』
そして、背を向ける。す。と、姿勢よく伸びた綺麗な背中だ。鈴が向こうを向いた瞬間に泣きたくなったけれど、そんなの気のせいだと、わざと大袈裟に手を振った。
振り返らないでほしい。うまく笑えていないから。
振り返ってほしい。顔が見たいから。
思いが鬩ぎ合う。
『や。あの』
そんな思いに気付いたわけないのに、鈴は振り向いた。
夜でよかったと、思う。
暗かったから、きっと、鈴からは俺の顔までは見えなかったはずだ。
『何にもなくても、連絡ください』
そう言い残して、今度は本当に、鈴は背中を向けて歩き出した。
残された俺はというと、鈴の言葉が嬉しくて、切なくて、その背中をずっと見えなくなるまで見送っていた。
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