【真鍮とアイオライト】8th 夜が暗いから

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 連絡先。聞いたんだから、連絡してもいいんだろうか。  と、俺は既に30分はスマホを持ったまま悩んでいた。一人で二つケーキを食べて、それを夕食代わりにして、その後、風呂に入っている間も、ずっと、そればかり考えていた。  鈴君は何もなくても連絡していいって言ったから、連絡してもいいんだろうか。  それとも、ただの社交辞令なんだろうか。  炬燵から立ち上がって、台所にお茶を入れに行こうとして、立ち止まる。  仮に。仮に送るとしてだ。  立ち止まったまま、俺は、スマホの画面を凝視した。LINEは立ち上げたままだ。  なんて送ればいいんだよ。  くるり。と、元の座布団の上に戻って、そこに座る。それから、スマホの画面に向かって指を向けたまま固まる。  こんばんわ。とか?  いや。固すぎるだろ。おっさんか。  セルフツッコミを入れて、指を画面から離す。  でも、鈴は連絡してくれって言った。だから、LINE送ってもいいはずだ。  それから、また、指先を画面に近づける。  今ヒマ? とか。  いかん。だから何なんだ。  明らかに俺がヒマ人だと思われるのがオチだ。  そんなことを考えてまた、指を離す。  こんなことをずっとやっていた。数えてはいないけれど、10回くらいは同じことをしただろう。  ああ。も。やめやめ。  本当に必要になったときに連絡すればいいんだよ。  首を振って、携帯を放り投げようとして、また、思いとどまる。それから、じっとスマホを見つめる。  やっぱり、送ろうかな。  いや。その前に、ちょっとお茶でもいれて、一旦落ち着こう。  そして、炬燵から俺は立ちあがった。  きっと、ほかの人が数えていたのなら、10回ではなく30回は同じことしてたよ。と、言われたことだろう。  分かってはいるんだ。くだらないことしているって。でも、こういう時人間ってバカになるもんだと思う。  送ってみよう。  文面は…。  ぴんぽん。  軽快な音に、思わずスマホを落とすところだった。  わたわた。と、慌てながらスマホを操作すると、ラインの通知。開いてみると、鈴の名前。  月。綺麗ですよ。  と。  固まった。  それが、どういう意味か。俺も知っていた。  実話ではないらしいのだが、最早本当のことと認知されている夏目先生のアレだ。  って。え?  いやいやいやいや。そんなわけない。  ちら。と、窓から空を見上げると、綺麗な月が見えていた。三日月。いや、もう少し細い。とにかく、まるで触れたら切れてしまう刃物のような綺麗な月だった。  昏い暗い淑やかな夜の闇に銀の欠片のような月。眩しい太陽の光とは違う。  夜が暗いから、月が綺麗なんだ。  と、動かされた心が泣きたくなるような揺らぎを伝えてくる。  感傷的になっているのだと、わかってはいるけれど、今日は、今は切り替えることなんてできそうになかった。それは、俺の中に芽生えたばかりの新芽のような感情のせいなのだと思う。  意識して、それを言葉にするのを避けているけれど、もう、決壊寸前だった。  月が綺麗ですよ。  と、スマホの画面を撫でる。  きっと、鈴は夏目漱石の言葉のことなんて知らない。建築科だと言っていたから、理系だ。俺みたいな完全文系とは違って(この話に理系文系が関係しているのか謎だが)こんな話を知ってはいないだろう。だから、普通に見えた綺麗な月のことを教えてくれたんだ。  そんなふうに自分に言い聞かせる。  けれど、どんなに言い聞かせても、もう、嬉しいと思う気持ちは誤魔化せない。  しんでもいい。  そう、答えたい。  それが自分の本心なのだと、理解した。  ぴんぽん。  また、着信。  夜が暗いから。  その文字に気持ちが決壊した。  ああ。好きだ。  この人が好きだ。  ダメなことかもしれないし。叶わないことだと分かってはいる。  でも、そんなことで、何が変わるんだろう。  鈴が同性でも、随分と年下でも、俺なんかとは釣り合いが取れるはずもない出来過ぎた人でも。鈴が鈴だから、容姿も、仕草も、表情も。優しさや、自分と似た感性や、何気なく零れた言葉の一つさえも。  好きなんだ。  俺は思う。  きっと、この思いは自分にとって致命傷になってしまう。  鈴に知られたら、鈴自身を失ってしまうくらいに危ういのに、こんな短時間で抑えきれなくなるほど好きになっている。  願わくば。  どうか、この思いが、伝わりませんように。  誰に、願うのかもわからないまま、願う。  窓の外に、刃物のような月が見える夜の出来事だった。
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