煩悩なき芳千丸

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 芳千丸(ほうせんまる)(それがし)の大納言の若君でありながら下賤の者には分からぬ事情により、まだ乳母の乳を離れかけた三つの歳に都を去って女人禁制の比叡山の霊場に預けられた。  物心ついた時分から父も母もなく上人(しょうにん)を親と頼み、仏道に帰依した。だから親に恋慕したり故郷に憧憬心を抱いたりするような煩悩の苦しみを味わうことなく青年期を迎えられた。  但、頭に曖昧模糊として残像する母と乳母の乳房の膨らみ、生温かさ、舌触り、乳の香りが未知なる女人への知識欲を掻き立てるのだった。  しかし、経文により女人というものを悪魔のように教え込まれていた芳千丸は、仏に仕える身でありながら悪魔を知ろうとするは正に邪道と自ら戒めていた。  しかし、麻呂は乳で育ったのだ。そんな命の恵みの源泉たる乳房が悪魔にある筈がない、とも思うのだが、女人こそ煩悩を掻き立てる悪魔なのだ、だからこの悪魔のおらぬ山で過ごせるお前は幸せ者なのだと上人は言うのだった。  師と仰ぐ御坊が仰るのだ。その薫陶を頂き高徳の(ひじり)になりたいと切望する麻呂が師の言葉を疑う心が露程もあるとは矛盾している。  しかし、女人について唯識論の外面如菩薩(げめんにょぼさつ)という言葉が引っかかる。観世音菩薩や弥勒菩薩のように女人は顔形が優美なのだろうか、そして胸に乳房が付いているとなれば…しかし、内心如夜叉というからには矢張り恐ろしいものなのか、斯様に芳千丸は思い惑う為に葛藤し、是が非でも女人を見てみたい、けれども断じて見てはならぬという二つの相反する強い心が常に相克するのだった。  嗚呼、今の麻呂は完全に煩悩に苦しんでいる。こんなことではいけない、こんなことではいけないとある晩も寝床の中で眠れずに悶々としていた。  妙に生暖かい草木も眠る丑三つ時だった。晩夏のコオロギなぞが集く虫の音しかしない静寂とした中で寝間の縁側から芳千丸様とよぶ世にも美しい声が襖障子越しに不意に聞こえて来た。  芳千丸にとって初めて耳にする部類の声だった。自分の名前を呼ばれたのかは定かでなかったが、無意識にときめきを感じるのを禁じ得なかった。 「芳千丸様」と繰り返し呼ばれたことで自分が呼ばれているのをはっきり自覚し、何やら期待感を覚えずにはいられなくなった。 「私は貴方様をお労しく存じます女人の一人でございます。嘸かし女人にお会いしたかったでございましょう。けれども、これまで誤った知識により女人を恐れておいでになったばかりにお会い出来なかったのでございましょう。私がその誤解を解いて差し上げます。さあ、縁側にお出になってこれを良いご縁に致しましょう」  どういう訳でこんな真夜中に…而もなにゆえに麻呂の内兜に通じているのか?と疑念を抱いたものの女人とあらば、これはもう確かめない訳にはいかない…芳千丸はのっぴきならない状態に陥って掛け布団を払いのけ、立ち上がり、襖障子に近づいたまでは勢いがあったが、いざ襖障子を開ける段になると、気後れし躊躇した。それから恐る恐る少し開けて覗いてみると、縁先に一人の女人それも如菩薩のような美しい部類の女人が月明かりを浴びながら錦繡を身に纏って立っていた。その艶やかさと言ったらなかったので芳千丸は、こ、これが夢にまで見たくても見れなかった女人というものか、綺麗なものだなあと心を奪われつつ襖障子をええいと思い切って開けて縁側に出た。 「まあ、想像以上に素敵なお方。さあ、綺羅星の如く佳人の居並ぶ所へお連れしますから私の手をお取りになって」  差し出された繊手を握った途端、芳千丸はその何とも柔らかい手触りが堪えられなくて、でれっとしてしまい未だ曾て味わったことのない夢うつつな快い気分になった。  それからというもの芳千丸は丑三つ時になると、佳人と出かけてゆき、かわたれ時に独りで寺に帰って来るということを繰り返した。  上人が芳千丸の異変に判然と気づいたのは芳千丸が佳人と出会ってから5日目のことだった。  自分の次の間に寝ている筈の芳千丸がいないのを偶々寅の刻に目覚めた時に確認して明け六つ前に帰って来た芳千丸を目撃したのだ。そして自分の所へ引き寄せ、「お前、ここのところ、読経の時に居眠りしたり、どうも可笑しいと思っておったが」と変わり果てた芳千丸に憮然として問いただしにかかった。「夜中に何処をほっつき歩いて来た?」 「あの、いえ、ほんの気晴らしに…」 「ここのところ毎晩か?」 「あの、いえ…」 「今日が初めてか?」 「は、はい」 「まあ、良い」とこの時はあっさり問うのを中断した上人であったが、後で寺男に芳千丸から目を放さぬよう、もし、夜になって又、寺を抜け出すようなことがあったら跡をつけるよう言い付けた。  翌晩の丑三つ時、代わりばんこで見張っていた寺男の一人が寺を出て行く芳千丸を見つけて他の寺男たちと共に提灯に火を灯して跡をつけた。  杉、檜の林を下り、コナラ、ミズナラの森、シャクナゲの群生地、ブナ林を通る間、芳千丸はまるで恋人と楽しげに話すように青い火の玉、即ち鬼火と共に歩を進めていた。  傍から見れば、そうなのだが、芳千丸は鬼火、即ち亡霊に化かされているので佳人と歩いている積もりなのである。  而して霊峰比叡を仰ぎ、琵琶湖を望める比良の山々の麓にある墓地にやって来ると、立ち並ぶ墓石の上に所々浮いていた鬼火が残らず芳千丸に寄ってきた。  すると、芳千丸は亡霊たちに化かされているものだから佳人たちと戯れている積もりになって大はしゃぎなのである。仕舞いには法衣を脱ぎ出す始末。  こりゃいかんと遠巻きに見ていた寺男たちは、芳千丸に駆け寄って行くと、鬼火らは蜘蛛の子を散らすように芳千丸から離れて行った。だから寺男たちは難なく芳千丸の身柄を確保して寺に帰った。  待ち構えていた上人は、寺男たちから事情を聞いた後、芳千丸に言った。 「一体どうしたんだ、その身だしなみは?」  寺男たちに無理矢理、法衣を着せられていたのだ。 「はぁ、あの…」 「何も咎め立てはせんから正直に話してみよ」  そう言われて芳千丸は腹を決めて佳人に出会った時からのことを一部どうしても恥ずかしくて話せない所は省いて打ち明けた。  すると、上人は全てを悟ってこう言った。 「お前は亡霊に化かされて佳人の誘惑に負け、結局の所、佳人たちと戯れることを良しとした訳だ。おまけに寺男たちの話によると、裸になろうとしたらしいから、ま、それから何をしようとしたのかは、お前が隠したように言わぬが、恐らく戦のどさくさ紛れに略奪凌辱した武士どもに恨みつらみがあり、怨念を抱き、成仏出来ないでいる女の亡者の亡霊にお前は戦を始めた朝廷の公卿の落胤であり僧侶でありながら有濡路(うろじ)をうろうろしておるから格好のカモにされ、取り憑かれておるのだ。だからゆくゆくは取り殺されるぞ。出家した身でありながらだ」  そう言われている内に芳千丸は忸怩たる思いとなり、涙を滂沱として流して泣き崩れていた。 「恥ずかしいであろう。情けないであろう。ま、若気の至りだ。今回だけは目をつぶるとして今日、日が暮れない内にありがたいお経の文句をお前の体中隈無く書いてやろう。今夜お前の身を是非とも守ってやらねばなるまいからな」  という訳で上人は小僧らと共に裸になった芳千丸の胸と言わず腹と言わず背中と言わず坊主頭の天辺から足の裏に至るまで法華経の文句を書き付けた。  それから上人は芳千丸に言った。 「今夜も就寝後、お迎えが来るだろうが、呼ばれても決して返事をするな。返事をしなければ、中に入って来てお前を強引に連れ出そうとするだろうが、お前さえ声を立てず念仏を唱えておれば大丈夫。亡霊にはお経の書かれたお前の姿は見えぬからな。おらぬものと思って諦めて出て行くだろう」    運命のその晩がやって来た。芳千丸は寝床の中でじっと堪えて待っていた。すると、案の定、丑三つ時に例の声が… 「芳千丸様」  芳千丸は心中で念仏を唱えながら生唾をごくりと呑み込み、震える身を必死に抑えつけようとした。 「芳千丸様」  一再ならず呼んでもいつもの返事はなく物音すらなく出て来る気配がないので佳人に化けた亡霊は、縁を上がってそっと襖障子を開けてみたが、敷き布団の上に仰臥し、掛け布団の襟から頭だけ出している芳千丸に気づくことが出来ない。  そこで掛け布団を捲ってみたが、矢張り気づくことが出来ない。全部捲ってみても気づくことが出来ない。が、よく見ると、あった。何があったって女人の欲しい隆々とした物が…  これはと思ってむんずと掴んだ勢いで引っこ抜くと、玉袋も付いて来た。  その途端、ぎえー!!と芳千丸がこの世の終わりを嘆くかの如く凄まじい悲鳴を上げ、その拍子に亡霊は寺の者たちが集まって来ることを予期して瞬く間に姿を晦ました。  悲鳴を聞きつけて上人のみならず小僧や寺男たちまでが芳千丸の寝間にやって来るや否や驚くわ肝を潰すわで大騒ぎになった。  上人は敷き布団の上で仰臥しながら股間を中心に血みどろになり、激痛に苦悶する芳千丸をこの上なく哀れに思い、嗚呼、わしとしたことが何たる不覚。選りに選って陰部だけを書き忘れるとは…  そう深く後悔し医者を呼ぶ手配をした上人に芳千丸は気丈にも言った。 「阿闍梨(あじゃり)様、これで良いのです。なんとなれば、私はあろう事か亡霊の声を聞いただけで興奮して、おっ立ててしまったのです。こんな物はない方が良いのです。これで煩悩から逃れられます。そして亡霊も満足して成仏出来るでしょう。ですから取り憑かれることもないのです」  言葉尻で強がってほくそ笑んで見せさえした芳千丸に上人一同、呆れ返ってしまい、中には吹き出すのを堪える者もあったそうな。    
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