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〈はい。仲根です〉
線の細そうな声がぼくの耳に入ってきた。この電話の相手こそが、今ぼくが仕事をしているダイダロス映像から飛んだという青年、仲根芯弥(なかね しんや)である。ディレクターに殴られて辞めているだけに、ダイダロス映像のことは快く思っていないだろう。言葉は慎重に選ばなくてはいけない。
〈ああ、すいません。私、ダイダロス映像の……〉
電話口の向こうより「ハッ」と驚くような声が聞こえてきた。それから、ぼくに名前を名乗らせずに芯弥は続けた。
〈あの、今更何か? 自分、もう辞めた人間なので…… お話することはありません。仮払いのお金も預かってませんので……〉
芯弥の声に怒気が込められ始めた。これだけで警戒しているとぼくに分からせるには十分過ぎた。おそらくは山石井に相当痛い目に遭わされていたのだろう、ぼくには容易に想像がついてしまう。
ぼくは基本、ADを辞めるような子は「仕方ない」と考えているために、芯弥に対してどうこうは思わない。フリーランスの立場故に「頼まれた」仕事をこなすだけだ。
〈仮払いとか、仕事が残っているとか、そんな用件じゃないんですよ。仲根さんが面接の時に渡した履歴書の方の返却に。ああ、別に仲根さんを追ってきた訳ではなく、私もフリーランスのADをしてまして、旅番組のロケハンにここに訪れただけでして、全くの偶然です〉
〈はぁ〉
〈ちょっと色々とありまして、偶然にも仲根さんの実家のご住所が私の担当する旅番組のロケハンの先と重なりまして、ダイダロス映像の方から履歴書の返却を頼まれた訳ですよ。個人情報保護の関係で、直接の返却をした方がいいと事務の織田さんに言われまして〉
〈ああ、そういうことでしたか〉
芯弥の怒気の込められた声が穏やかなものとなった。警戒を解いたのだろう。ぼくとしては、早くこの涼風村の散策に入りたいと考えている。それとは関係ない仕事はさっさと終わらせたい。ぼくは予定の確認を行った。
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