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「あのー。ごめんください」
廊下の奥より足音が聞こえてきた。現れたのは線の細い優男だった。格好は上は黒い前開きのパーカーに青シャツ、下は青のジーンズ。若者らしい格好である。ぼくが一目見た印象は「純朴な田舎の青年」である。彼が芯弥だろうか。
「あの、先程電話させて頂きましたダイダロス映像の……」と、言いながらぼくは名刺を芯弥と思われる青年に渡した。彼は名刺を軽く眺めた。
「あの? ダイダロス映像の方じゃないんですか?」
「私はフリーランスのADです。旅番組の製作でダイダロス映像で仕事をさせて頂いていてます」
「フリーランス…… 自由に色んな番組を渡り歩いてるってことですか?」
「そうですね。今回はダイダロス製作の旅番組のロケハンを頼まれまして」
「ああ、そうなんですか。こんな何もないところまでご苦労様です。ああ、お茶をお淹れしますよ」
「お構いなく。履歴書の方をお返ししたら、すぐお引きとりさせて頂きます」
ぼくは芯弥に案内され居間へと導かれた。その居間は畳が数十畳もあり、ちょっとした寺院の伽藍堂を思わせた。ぼく達は広い中庭を臨む窓際沿いのテーブルでフェイス・トゥ・フェイスの形で向き合う。ぼくは履歴書を差し出した。
「こちら、履歴書の方を返却させて頂きます」
芯弥は履歴書を眺め、僅かに首を傾げながら尋ねてきた。
「あの、返しに来て貰って失礼を承知で言うんですけど…… 別にそのまま処分してもらっても良かったのですが」
確かにそうだ。辞めた人間の履歴書なぞ、会社が持っていても何のメリットもない。だが、今はこう言ったことには厳しい御時世になっていて、個人情報の管理をキチンと行うことも義務になっている。個人情報を適当に扱ったり、最悪の場合は悪用する輩のせいで面倒くさくなっているものだ。ぼくはそんなことを考えながら心の中で溜息を吐いた。
「まぁ、今は厳しくなっていると御理解頂ければ幸いです。仲根さんも僅かとは言え、業界で仕事をしていたのですからお分かりいただけると思います」
「そう…… ですね。自分としてはもう終わったことだったので……」
「ああ、嫌なこと思い出しちゃいました? ああ、私はフリーランスでダイダロスには長くいませんので、好きに愚痴言っちゃって構いませんよ? ADって不条理なこといっぱいあるから悪口も一つや二つじゃ足りないでしょう?」
「テレビ業界って、華やかに見えて泥臭いですよね? 理想とのギャップが酷かったとしか。何があったかって言うのは…… もう思い出したくないもんで」
芯弥の上司であった山石井の人柄を知っていれば大体の予想がつく。殴る蹴るは当たり前で、あらゆるハラスメントに遭ったのだろう。これを語らせるのも辛いだろうし、ぼくなんかが聞いてもどうしようもない。話を逸らすことにした。
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