4 山狩り

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 その瞬間、バックミラーに「あり得ない姿」を見つけてしまった。垂れつきの衛生帽子を被り、血まみれの白いエプロンを纏った男が後部座席の中央に座っているのだ。その男の顔と格好は見覚えがあった。商店街の肉屋である。慌ててブレーキを踏もうと考えた瞬間、肉屋は運転席と助手席のヘッドレストの中央からぬぅーと顔を出し、右手に持っている血まみれの包丁をぼくの喉元に突きつけてきた。そして、耳元に生暖かい息を吹きかけながら囁いた。 「右に行け。右に行かないと今すぐに…… 『刺す』からな?」 いつの間に乗り込んでいたんだ? 考えられるのは陶器人形(ポーセリンドール)を校庭の隅に寄せている間にそっと乗り込んだことだけだ。何かあった場合にドアの施錠をしなかったことがここで裏目に出るとは思わなかった。 肉屋は更に囁いた。 「左に行ってみろ? こんな悪いお手々は包丁でザクザクに切り刻んでやるからな?」 どちらにせよ、殺すつもりなのは明白だ。こうなれば急ブレーキを踏んで、前のめりになったところの隙を突いて…… と、考えた瞬間に肉屋は包丁を下向きにし、そのまま振り下ろし、シートに突き立てた! 突き立てられた穴より、ウレタンと布カバーの埃が舞い散る。 後、数センチでもズレていれば、ぼくの左腿に包丁が突き立っていただろう。 その恐怖に震え上がったぼくはウィンカーを右に出し、ハンドルを右に回していた……  ぼくは肉屋に包丁を喉元に突きつけられたまま、商店街に向かって車を走らせていた。包丁の(きっさき)を突きつけられているだけで、その場所がジンジンとするのは不可解であった。ぼくは先端恐怖症の()はなかったのだが…… たった今先端恐怖症になってしまったのかは分からない。それに加え、時折ではあるが、チクチクと(きっさき)を当ててくるために怖くて堪らない。 追い打ちをかけるように肉屋はぼくに呟いた。 「もう少し、深く刺せば頸動脈だぞ? 下手にブレーキをかけて俺の手が滑ってみろ? お前、死ぬぞ?」 どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ…… もう泣きたいよ…… ぼくは思わずに肉屋に尋ねてしまった。 「どうしてこんなことするんだ?」 肉屋はぼくに向かって煙草のヤニで黄色く染まった歯を見せて にぃー と、笑顔を見せた。その答えは無慈悲なものだった。 「秘密を知った者は生かしてはおけないんでな。これがこの村の昔からの決まりなんだ。早く出ていかずに村のことをコソコソと探るからいけないんだぞ?」 ぼくは生き延びるための方法を考えた。とりあえず、平身低頭で謝ることにしよう。プロデューサーやディレクターを頂点とした縦社会であるマスコミ業界で生きる上で身につけた処世術だ。まずは、謝ることを切掛にして、言い訳をせずに姑息的にもその場を切り抜けなければ始まらない。
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