ハイウェイメモリー

5/6
前へ
/6ページ
次へ
 飲み物を買って車に戻ろう、と自動販売機の前に立つ。さすがパーキングエリアというか、ラインナップが少ない。いつも飲んでいるホットのブラックコーヒーを買い、ふと思い立ってカフェオレも買った。  車の助手席のジュースホルダーに、カフェオレの缶をそっと置く。それだけで、なんだか彼女がそこにいる気がした。  別れを告げたのは自分からだった。付き合っているわけでもなく、ただ同じ秘密を共有するだけの自分達に『別れ』という概念があるのかどうかもわからないが。  高速に乗る前に、ポストに投函した手紙を思い出す。  「さよなら、お元気で 俺は元気です」  たったそれだけ書いた一筆箋。彼女はそれを読んで、どうするだろうか。  彼女にだけは、ここから去ることを伝えていた。本当の自分になるために。  ホルモン療法で、生理は止まった。筋肉質になり、声も低くなった。元々背が高いおかげで、ぱっと見は男性にしか見えない。  自分は生まれ変わった。男として生きていく。  そのために、向き合わなければならないことがあった。今日はそのために車を走らせている。  サイドブレーキを解除して、アクセルを踏み込んだ。  自分を縛る呪い。父と母と姉の家へと、車は走る。  ふいに防音壁が途切れて、海が見えた。窓を開けると、微かに波の音が聞こえる。  夏の終わりの海で、彼女が自分に言った言葉を思い出す。 「捨てるんなら私にちょうだいよ。捨てる前にちょうだいよ。わ、わたしは、ずっと女の子になりたかった……」  それができたらどんなによかっただろうか。自分の性別を彼女にあげて、彼女の性別を自分がもらう。それができれば、どれだけ幸せだっただろうか。  そんな都合の良いことはできない。誰よりも彼女と自分が、一番わかっている。彼女の声は震えていて、握りしめられたワンピースの裾はしわくちゃになっていた。  多くを語らない彼女と自分だったけれど、お互いに抱えているものは同じだった。彼女といるのは心地よくて、ずっとこのままでも良いんじゃないかと思っていた。しかし、「このままではいけない」と知らしめるかのように、時折母からメールが届いた。 「どこにいるの? いい加減帰ってきてちょうだい。あなたまで遠くに行かないで」 「お母さんが悪かったの? 帰ってきて」  向き合わなければならない。自分が自分であるために。俺は、ずっと男になりたかったんだと伝えなければならない。  自分の前では凛と立つ、ワンピースの彼女。夜の海は静かで、空にぽっかり浮かぶ月が白く彼女を照らしていた。  唇を噛み締めて、彼女を見つめる。前に進まなければ。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加