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飲み物を買って車に戻ろう、と自動販売機の前に立つ。さすがパーキングエリアというか、ラインナップが少ない。いつも飲んでいるホットのブラックコーヒーを買い、ふと思い立ってカフェオレも買った。
車の助手席のジュースホルダーに、カフェオレの缶をそっと置く。それだけで、なんだか彼女がそこにいる気がした。
別れを告げたのは自分からだった。付き合っているわけでもなく、ただ同じ秘密を共有するだけの自分達に『別れ』という概念があるのかどうかもわからないが。
高速に乗る前に、ポストに投函した手紙を思い出す。
「さよなら、お元気で 俺は元気です」
たったそれだけ書いた一筆箋。彼女はそれを読んで、どうするだろうか。
彼女にだけは、ここから去ることを伝えていた。本当の自分になるために。
ホルモン療法で、生理は止まった。筋肉質になり、声も低くなった。元々背が高いおかげで、ぱっと見は男性にしか見えない。
自分は生まれ変わった。男として生きていく。
そのために、向き合わなければならないことがあった。今日はそのために車を走らせている。
サイドブレーキを解除して、アクセルを踏み込んだ。
自分を縛る呪い。父と母と姉の家へと、車は走る。
ふいに防音壁が途切れて、海が見えた。窓を開けると、微かに波の音が聞こえる。
夏の終わりの海で、彼女が自分に言った言葉を思い出す。
「捨てるんなら私にちょうだいよ。捨てる前にちょうだいよ。わ、わたしは、ずっと女の子になりたかった……」
それができたらどんなによかっただろうか。自分の性別を彼女にあげて、彼女の性別を自分がもらう。それができれば、どれだけ幸せだっただろうか。
そんな都合の良いことはできない。誰よりも彼女と自分が、一番わかっている。彼女の声は震えていて、握りしめられたワンピースの裾はしわくちゃになっていた。
多くを語らない彼女と自分だったけれど、お互いに抱えているものは同じだった。彼女といるのは心地よくて、ずっとこのままでも良いんじゃないかと思っていた。しかし、「このままではいけない」と知らしめるかのように、時折母からメールが届いた。
「どこにいるの? いい加減帰ってきてちょうだい。あなたまで遠くに行かないで」
「お母さんが悪かったの? 帰ってきて」
向き合わなければならない。自分が自分であるために。俺は、ずっと男になりたかったんだと伝えなければならない。
自分の前では凛と立つ、ワンピースの彼女。夜の海は静かで、空にぽっかり浮かぶ月が白く彼女を照らしていた。
唇を噛み締めて、彼女を見つめる。前に進まなければ。
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