side:リヒト

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side:リヒト

「Spargel(アスパラ)」  間髪入れずに返ってきた軽やかな声に、僕は思わずテーブルを拭く手を止めてしまった。  綴りを思い出し、L、L、と頭の中で頭文字を唱える。  ドイツ語でのしりとりは、日本のものよりも複雑らしい。テオは僕に合わせて簡単なルールにしてくれたけれど、それでもやっぱり難しくて、単語ひとつ思い浮かべるのにも時間がかかる。 「…………Lauch(ネギ)」  唸りながら絞り出した答えに、テオがこちらを振り返った。  つい眉間に皺が寄ってしまって、慌てて眉間の力を抜く。自分でも分かっている。昔から治らない、どうしようもない僕の癖のひとつだ。 「Honig(はちみつ)」  その答えと同じくらい甘さをたっぷりと含んだ声で、テオが笑って言った。  少し癖のある黒い髪はつややかで、彼の無邪気さを表しているかのようにぴょんぴょんと跳ねている。健康そうな小麦色にやけた肌に、綺麗なアーモンド形の瞳はグレーがかった深い青色。大きな口から、白い歯が零れる。彼の口角はいつでも大概上向きだ。  出会って一週間。少しずつ、テオのことがわかってきた。  五歳年上の彼は、僕よりも少しだけ背が高い。仕立て屋さんのお仕事をしている彼は、いつもおしゃれな服をさらりと着こなしている。いつもにこにこと笑っていて、気が利いて優しくて、手先が器用で料理上手。そしてかなり強引なところがある。  鍋に視線を落とす横顔に、うっかり見入りかけて、慌てて思考を元に戻す。G、G……、思い浮かばない。 「えーっと……Glas(コップ)。……これは、セーフ?」  どうにか思いついた単語を口に出す。今日のしりとりのお題は、『食べ物』に関係するものだ。どう考えてもアウトだけど、と思いながら首を傾けると、テオは大きく頷きを返してくれた。彼は大概甘い。ルールなんて存在しないんじゃないか、と思うくらいにはゆるゆるだ。 「セーフセーフ! じゃあね、Schnitzel(カツレツ)」 「うぅ、またL……?」  そういえば、昨日テオが作ってくれたカツレツは、衣がからりとしていて全然しつこくなくて、あっという間に僕のお腹の中に消えてしまった。残った分は持って帰っていいと言ってくれたから、お言葉に甘えてお昼ごはんになった。  今日の晩ごはんは、ジャガイモのポタージュらしい。彼がゆっくりとかき混ぜている鍋からは、湯気とともに美味しそうな匂いが立ち上っている。どんどんお腹が減ってくる。 「えーっと……、Lachs(サーモン)」  テオはゆっくりとかき混ぜていたポタージュを一口含んだ。そして笑いながらまた一言。 「Speck(ベーコン)。リヒト、ほらこっち来て。味見味見!」  おいでと手招きされて、僕は固まった。無理。 「はい。怖くない怖くない」  そう笑いながら、テオは横に一歩ずれた。  断れる筈もない。だってあんなに美味しそうな匂いがしているんだもの、と心の中で言い訳をする。湯気とともに立ち上る匂いにつられ、僕は鍋の前に立ってしまう。  にっこりと笑うテオを横目でちらりと見る。一歩半離れたところに立つ彼は、相変わらず楽しそうな笑みを浮かべている。  鍋の中のポタージュには、細切りになったウインナーとベーコンがたくさん入っていて、すごく美味しそうだ。お玉に少しだけすくうと、また湯気が立ち上る。何度か息を吹きかけて冷ましながら、ゆっくりと口に運んだ。 「どう? 美味しい?」  飲み込んだ直後耳に届いた声に、反射的に頷いてからまた眉が寄った。近い。 「うぅ、ちょっと近いです……」 「あー、ごめんごめん! はい! もうこれ以上近寄りません!」  そう謝りながら両手を上げる姿を、僕はこの一週間で何回見ただろうか。 「……テオはいつもそう言う」  つい恨みがましそうな目を向けてしまう。そうするとテオはまた眉を下げて一歩下がってくれた。  テオのパーソナルスペースはものすごく狭い。この一週間で嫌と言うほど思い知った。まるで全人類友達だと思っているんじゃないかと思うくらい、いつだって距離が近い。少し距離を取っても、気がつくといつも顔がすぐ側にある。  全然慣れないけれど、離れてくれると少しは冷静になれる。  舌先に残ったポタージュは、ほんのりとした塩気があってとても優しい味がした。 「……でも、美味しいです」 「ほんとに? よかったー!」  テオはほんの少し安心したように笑った。  彼はいつもあたたかくて、どこか懐かしい胸がほっこりするような家庭料理を作ってくれる。素朴な味わいに、もう何年も口にしていないおばあちゃんの料理を思い出した。小さい頃泣きながら家に帰る度に、こんがり焼けたパイや何時間も煮込んだビーフシチューを出してくれたっけ。天国でも彼女は料理をしているんだろうか。 「……テオの作る料理は、おばあちゃんの味にちょっと似てる気がします。懐かしくて、美味しい」  少し恥ずかしいことを喋ってしまったかもしれない。顔を上げると、テオは喉に何か詰まったような、困ったような、そんな顔をしている。珍しくて、ついじっと見てしまう。  柔らかそうなシャツを肘までまくり上げて、エプロンをしめたハンサムな仕立て屋さん。初めて会ったとき、彼はやっぱり今と同じようにお玉を握っていた。だから僕はてっきり、テオのことをコックさんだと思ったのだった。 「あ」  そうだ。しりとりの続きを思い出した。Kだ。 「Koch(コック)」  コップがOKならこれも大丈夫なはず。  自信満々に答えると、ほんのすぐ近くでふっと吐息を含んだような、甘い声がした。 「かわいい……」  何その笑顔近い眩しいかっこいい無理無理無理無理ほんと無理。そんな風に笑わないでこっち見ないで尊すぎて目が潰れそう。  僕は反射的に眉間に皺を寄せて大きく一歩後ずさった。
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