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高能訪問編⑤
「見て見て!小太郎!水が気持ちいい!」
一幡は楽しそうに海に足を入れていた。ここは由比ヶ浜という鎌倉に面している海岸で、紺碧の海は夏の太陽に照らされて光り輝いている。そんな綺麗な自然の風景とは裏腹にこの浜では昔から処刑や戦が行われているみたいだが…そこになぜか一人海に浸かって戯れている一幡、それをそばで眺める幸氏、それに付き合わされている高能がいた。
(なぜ、私がここに…)
一幡と裏山で偶然会って以来、一幡は頻繁に高能を呼び出し遊びに誘うようになった。大体は一幡の部屋でおしゃべりや人形遊びをしたり、裏山で花摘みをしたり、昨日は幸氏を入れて三人で町へ行き、今日は海だ。
(それにしても、海はいいな)
京の都に住んでいた高能にとって海は初めて見る風景だった。当然だが海はどんなに眼をこらしても対岸など見えず空と接するところで区切られて見える。
(あの空と接するところで海は終わりなのか?それとも広すぎて境目が見えないのか?)
地面の砂はそこら辺にある砂と違ってさらさらと細かい砂で履き物に入り込んでくる。砂浜に立ったときになびく風は他の場所にいるよりも少し冷たく感じられ広大な海を前にするとなぜかこれまでの人生に起こったことが全てこの風と穏やかな波に洗い流されるような感じがした。
「高能様!」
またあの気まぐれな姫が高能を呼んだ。
「何です?」
「知っていましたか?海の水はしょっぱいのですよ。ほら、高能様も飲んでみてください。」
そう言って一幡は海水を手ですくって見せた。しかし、波打ち際に立っている高能に対して、一幡は海に足がつかる所にいた。
「・・・私はそっちには行きませんよ?第一、水が得意ではないのです」
「いいからいいから」
気づけば一幡が高能の目の前にいて軽く高能に向かって水をかけてきた。
「ちょ、ちょっと!」
すると高能の口に海水が少しだけ入ったようで一幡の言う通りしょっぱい味がした。
「これが海の味か・・・」
水をかけられたのは不本意であったが、生まれて初めて口にした味に高能は思わず感動した。
「でしょう?義高様も初めて海水を口にしたときはあなたと同じ反応をしていました。」
一幡から「高能様」以上に口から出る回数が多いのが「義高様」だ。
(また義高か。この手の女は過去の男を引きずって、他の男にその男の面影を探すから面倒なんだよな。)
高能は別に一幡と一緒にいることが苦痛である訳ではないが、一幡の口から何回も出てくるその「義高」という名前には、正直聞き飽きていた。
「姫は義高殿が本当にお好きなのですね。一体どんな美男子なのか拝見したかったものです」
高能はてっきりそう言えば一幡が喜んでくれると思っていたが、一幡の表情が暗くなった。
「・・・私はあまり外の世界を知らないから義高様の容貌が世間的に見てどう見えるかなんてわからない。性格は無愛想で私と遊ぶときはいつも面倒くさそうな顔をしていたし、幸氏と共にいる時の方があの方は生き生きしていた。」
「・・・そうですか」
高能は一幡が義高をべた褒めすると思っていたが、一幡は義高に対して意外と否定的な評価をした。
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(熟田津で船出をしようと月の出るのを待っていると、月も出て潮の具合も良くなった。さぁ、今こそは漕ぎ出そう)」
気を取り直した一幡は海を見ながらそう歌を詠んだ。
「・・・額田王ですか・・・」
すぐに高能が反応した。
「知っているのですか?」
「一応和歌の教養はありますから」
「これは額田王が百済へ船を出すときに詠んだ歌。これは伊予で詠んだ歌だけど、海にぴったりの歌ですよね」
そう言いながら一幡は海を眺めていた。そのとき高能には突然額田王の歌を詠んだ一幡の意図がなんとなくわかったような気がした。
「・・・他人に感情移入するのはわかりますけど、あまり自分が悲劇の主人公だって思い込まない方がいいと思います。」
額田王は大海人皇子の妻であったが、中大兄皇子に好かれその妻となった。愛する人と無理やり引き離され額田王はとても辛かったことだろう。しかし、額田王の悲劇はこれだけではない。額田王と大海人皇子の娘である十市皇女は中大兄皇子の嫡男、大友皇子に嫁ぐが、今度は大友皇子と大海人皇子が壬申の乱で戦うことになり敗れた大友皇子は自害する。額田王も十市皇女も一幡の境遇に少し似ていると高能は思った。
「・・・ようやくあなたの意見を言ってくれましたね」
すると一幡がそう言って微笑んだ。
「は?」
高能は目を丸くした。
「あなたはいつも自分の意見など言わずに適当に応答するだけだったから・・・でも、今のあなたは私にしっかりと自分の考えを伝えてくれた」
そのとき冷たい海風が高能と一幡の髪をなびかせた。
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