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高能訪問編⑧
「姫との縁談をあきらめて京へ帰るだと?」
頼朝の声が強張った。
「はい。」
高能はそう返事をして頭を下げた。
「やはり姫は納得してくれなかったか…」
頼朝は少し落胆した様子を見せた。
「娘がわがままを言ってすまない。後でわしが必ず説得する。」
「いえ…」
すると即座に高能が頼朝の言ったことを拒否した。
「姫は一度、私の妻になることを承知してくれましたが、私が姫の様子を見て断ろうと判断いたしました。」
「姫がどうかしたのか?」
「…いえ。ただ姫は…とても素直な方だと思っただけです。」
高能は頼朝にそう言い残して鎌倉を去って行った。
「本当にこれで良かったのですか。」
高能一行が帰っていく姿を見ながらかつて一幡と義高が出会った桜の木の下で幸氏が一幡に聞いた。
「もう良いの。…もう良い…」
一幡はふと高能との最後のやりとりを思い出した。
「姫にとって私の妻になることは幸せか?」
一幡はその質問にしばらく答えられなかった。
「私の名前は…」
どれくらいの時間が流れたのか、一幡はそう口を開いた。
「本当の名前は一幡っていうの。もう誰も呼んでくれないけど、義高様は一幡って呼んでくれたの。もし、夫婦になったらあなたは私の目を見て一幡って呼んでくれる?」
なぜか一幡の目の表面は涙で潤んでいた。
「私は…」
高能はそれ以上言葉が出なかった。
京へ戻る途中、高能は家臣たちと入間川の近くに立ち寄った。こののどかな田舎町に木曽義高を祀る神社があるのだ。
「ここか…」
神社は政子によって創建され、社は整備されてかなり綺麗な真新しい神社だった。
「確か…里の者がこの地に義高殿の体を埋めたのか…」
高能がふと境内の脇の方に目をやるとそこには月草が咲いてあった。月草はひっそりとした様子で空よりも青い花弁で魅せていた。高能はそっと月草に近づく。
「…罪な男だな。女の心をここまで翻弄するとは・・・」
高能は参拝が終わるとすぐに京へと去って行った。高能にはなぜあのとき一幡の名前を呼べなかったのかわからなかった。一幡が求めているのは名前を呼んでくれる誰かではない。きっと名前を呼んでくれる義高本人なのだ。
(姫はずっとあのままなのだろうか・・・あのままずっと義高殿を愛し続けるのだろうか・・・あのように自分の気持ちに素直であれば、女子が生きていくには少々生きづらい気がする。鎌倉殿が姫の気持ちを尊重してくれれば良いが・・・)
この後、高能は妻を迎え子にも恵まれるが、建久九年(1198)に若くして亡くなる。この年は一幡が亡くなったとされる年の翌年のことだった。これが偶然かそれとも運命のいたずらか、それは誰にもわからない。
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