君の自転車のサドルになりたい

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 君の自転車のサドルになりたい  君の自転車のサドルになって、その丸くて柔らかいおしりを包んではなしたくない。血色のいい太ももにほおずりしてどこまでも支えてあげたい。風にのせられた君の夏ミカンのような甘いにおいに包まれていたい。 彼女と出会ったのは、去年の春。 あれは四月の上旬らしからぬ、半そでで一日過ごせてしまうぐらい暑い日だった。僕は二年生になってから新しく始まったゼミの教室を目指して、全力で走っていた。季節外れの暑さにじんわりと汗がにじむ。肩まで伸びた髪は汗でうねり手が付けられなくなっていた。だらだらと家でゲームをしていた数十分前の自分に心の中で恨み言を吐きつつ、なんとか五分遅れで教室の前にたどり着く。中から細々と、おそらく教授のものと思われる話し声が漏れていた。おそるおそる扉を開けると二十近い視線が一気に僕に向けられる。遅れてすみませんでした、と軽く頭を下げてこわばった体を押し進めてどうにか空席までたどり着く。小さな教室の中には、長机が正方形に並べられており、彼女は僕のちょうど真向いでピタリときれいに膝を閉じて、ゼミの資料に目を通していた。その時点では、とにかくきれいな人だな、ぐらいの第一印象だった。そのあと、教授の席から時計回りで自己紹介をする時間があり、私が最初で、彼女が最後だった。出身と趣味と無難な一言を添え隣の人へと順番を回す。時々小さな笑いが起きたり、起きなかったりしながら、ついに彼女が自己紹介する番になった。 内容ははっきりと覚えていない。彼女はとにかく、静かな声でしっかりと喋った。その透き通った声は、動悸がまだ収まりきっていない僕の心臓をより一層苦しくした。落ち着いた綺麗な声に、理知的な話し方、涼やかな切れ長なひとえに僕は恋してしまった。 それから何回も彼女に話しかける機会をうかがったが、なかなかチャンスは巡ってこなかった。そもそも女性と話した経験が少ないうえに話下手な僕にとって彼女と仲良くなることは非常に困難に思われた。しかし、意外なタイミングでチャンスは訪れた。教授がひどい風邪にかかりゼミが一度休講になったので、授業計画が変更され、急遽、当初の予定にはなかったペアワークが行われることになったのだ。すでに彼女に狂っていた私は、彼女とペアになれるように神や仏、はてはゼウスだかアラーだかありとあらゆる、知りうる限りの神に祈った。その効用かは定かでないが、教授が向かい合っている同士をペアにするというよくわからない方式を採用し、無事に彼女とペアになることができた。話してみると、彼女と僕は驚くほど感性が似ており、この後はとんとん拍子で事が進んだ。女性と話すのが苦手な僕だったが彼女の前では不思議とするすると喋れたし、彼女も同様だった。 彼女が笑えば僕も笑ったし、僕が泣くところで彼女も泣いた。お互い初めての彼氏彼女とは思えないほどすべてを分かち合えた。一度気になって、僕のどういうところが好きなのか聞いてみたことがある。『性格と、顔』とかえってきて、変わった人もいるもんだな、と思った。『君もたいがいだと思うけど』といわれ、また困った。お互い重度のインドア派だったため家で遊ぶのを繰り返しているうちに、冬になるころには、自然と大学に近い彼女の家で半同棲状態になっていた。同棲して、ますます彼女のことが好きになっていった。これからもこの人といたいと。しかし、そんな彼女は忽然とこの世から姿を消してしまった。彼女は、夜に自転車でコンビニに向かう途中でスピード超過の自動車に、はねられて亡くなった。自転車のサドルが折れて、道路に飛び出したらしい。最初サドルが折れるという事が理解できずひどく困惑した。しかし、ある事実に思い当たりすぐに胃からさっき食べたばかりのものがせりあがってきた。昨日、どうしても自分の自転車の鍵が見つからず、彼女の自転車を借りたこと。小柄な彼女の自転車は、長身の僕にとってはとても漕ぎずらかったこと。サドルを限界まで上げて戻していなかったこと。 家を出る前に思い出して、慌てて彼女に、ごめん今時間がなくて直せないけど、サドル乗るとき戻してね、とは伝えていた。そしておそらく彼女は戻さなかった。 もしあの時ちゃんとサドルを直していれば、もしあの時飲み会に行かずに家にいてかわりにコンビニに行けていれば、せめて、通りすがった車が法定速度内で走っていれば。結局、彼女の死は不幸の事故で処理されその原因まで追及されることはなかった。葬式で彼女の母は僕にありがとう、といった。彼女に楽しい思い出をありがとう、寄り添ってくれてありがとう、と。僕はその瞬間すべてが耐えられなくなった。 結局、一か月いろいろ考えて、全然眠れなくて、まだ君が好きで。人は、まず亡くなった人の声から忘れるらしい。今はあんなに好きだった君の声も、もやがかかったみたいでちゃんと思い出せるか怪しい。忘れないように毎日頭の中で思い出していたのに。君も僕も、写真や動画が苦手だった。君の声はこの世にもうないし、写真もほとんどない。こんなことなら無理してでももっと写真も動画も撮っておけばよかった。後悔してももう遅いのに。 数少ない二人で写ってる写真。満開の桜をバックに、君が満面の笑みを浮かべて、僕がその横で不格好な笑顔で小さくピースしてる。普段は家で過ごすことの多い君が、急に花見をしようって言いだして、近場の公園だったけど本当にきれいな桜だった。『君から写真撮ろうって言いだすの、珍しいね』『単体で写真撮られるのはまだ苦手だけど、二人なら嫌じゃなくなってきた』 その声ももう思い出せない。 来世は君の自転車のサドルになりたい。そして、どこまでも君と風に乗って、放したくない。
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