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果たして、なぜなのか
ガラス越しに見る外は、いつのまにか雨が降り始めていた。
さっきまで漂っていた必要以上の緊張感のせいか、外の音にまで注意を向けていたものはいなかったので、鷹志田の行動のおかげで気がつけたともいえた。
雨の勢いはそれほどでもない。
しかし、もう少し時間が経てば雨量が増してくるかもしれないと思わせる。
嫌な雰囲気をかき消すようにピシャリとカーテンを閉め直すと、鷹志田は元の場所に戻った。
何でもないものに怯えてしまっていた反動か、やや緊張が弛緩していた。
いい意味でリラックスしてしまったともいえる。
「では、まあ、とりあえず話をしますか」
むしろ、開き直ったといってもいいのか。
「まず、私の認識では、あの朱いかすりの着物の女が『ダイシ様』と呼称されるものと同一だと考えていますが、それでいいですか舞衣さん」
「……」
「断定はできないと。まあ、目撃しているのは私と小夜子さんだけですからね。……小夜子さんはどうですか?」
少しためらってから、
「お祖母ちゃんの話の印象だけなら、たぶん、間違っていない気はする。おそらくだけどね」
「では、仮に『ダイシ様』だとしましょう。あいつは幸吉さんを殺害して、琴乃さんを拉致した。これは私と小夜子さんが嘘をつかない限り事実です。あとで反対尋問してもらって伝聞性を確かめてもいいですよ。今更嘘を言うほどの根性は残っていませんけど。……で、あいつは僕たちの前からどこかに去って行ってしまい、私たちはここで怖くて震えている。これも覆せない時事ですね」
しゃべり続けていないと怖くて仕方がない。
傍から見ると痛々しいだろうが、もう気にしていられる精神状態でもなかった。
少しでも自分が楽になるためには口を回転し続けるしかないのだ。
「今の段階で考えるべきことは、一刻も早くここから逃げ出す手段です。でも、車はさっき確認した通りに動かせない。映画じゃないから、配線を繋ぐなんて神業はできませんしね。それと、歩くのも無理。雨が降ってきましたからね。この雨の中動き回るのは困難でしょう。……あと、隣の家に助けを求めるのは危険か」
「どうしてだい?」
静磨が疑問を呈したので、
「寅彦さんが帰ってこないからです。七時にここを出発したはずなのに、もう十二時近くになっても音沙汰がないのはかなり不自然です。そうなると、菊美さんたちご家族には大変申し訳ないのですが、寅彦さんもさっきの『ダイシ様』の手にかかった可能性が高いと考えられます」
「てことは、やっぱりうちの母ちゃんもか……?」
「すみません、静磨さん」
「いや、いいよ。なんとなく覚悟はできていた。ま、死体でも見ない限り諦めたりはしないけどさ。確かに不自然だもんな。靴もないし、車も出していない。それで無事だったらそれこそ茶番だ。話を続けてくれよ」
「……では、清美さんまでも被害にあったという前提で考えましょうか。そこから導き出される答えは、この屋敷から出ようとした場合も危険だということです」
「逃げれば狙われるということですか?」
「あいつは無差別にこの家にいる人間を狙っています。だから、出ていこうとする人間を真っ先に襲ったと考えるのが妥当でしょうね」
琴乃夫婦は家族という群れから離れて、二人だけで離れに行ったのが狙われた原因だろう。
しかも、あの離れならば本来は鷹志田たちが好奇心を出さない限り、近づくものもおらず、しばらくは誰にも犯行が発覚しなかったはずだ。
「あいつの狙いは皆殺しでしょう」
「この屋敷にいる人間をか?」
「おそらく」
すると、異議を唱えるものがでた。
「待って。なんのためにそんなことをするのさ。だって『ダイシ様』はあたしたちのご先祖様だよ。子孫を皆殺しにするなんてことは考えられないよ」
小夜子の意見には、鷹志田にとって聞き捨てならない内容が含まれていた。
「え、どういうことです? ご先祖様?」
「……あ」
この期に及んで、やはり宇留部家には隠し事があるようだ。
さすがに聞きとがめるだけでなく、追求が必要だろうと鷹志田は判断する。
「もう隠し事はやめてくださいよ。この屋敷にいる人が狙われているというのなら、私だって無関係じゃないんだ。正直、何も知らずに殺されるのは御免なんです!」
「ごめん、センセー……」
「すいません、先生。別に隠すつもりでは……」
「謝罪は結構です。とりあえず情報をください。逃げ出せそうにない以上。なんとかここで朝になるまでしのいで、誰かに助けを呼ぶしかないんです。戦う……のは、もやしの私では難しいですが、相手のことがわかればなんとか隙をつくことぐらいはできるはずです。その手助けをしてください」
鷹志田は死にたくないので必死だった。
あまり激昂しない性格なので、怒鳴り散らすようなことはしなかったが、それでも語気は厳しくならざるを得ない。
「……すいません」
「じゃあ、聞きます。『ダイシ様』って何ですか?」
「お祖母様の話では、ご先祖様―――かなり昔に亡くなった宇留部本家の家長だったという話です」
「家長? ああ、宇留部は長姉相続が基本だと言っていましたね。だから、どうみても女性にしか見えないアレが家長だったのですか。……ん、じゃあ、改めて確認しますけど……もしかして、あれってお幽霊なんですか?」
「お幽霊……。って幽霊というか、オバケというか……そんな感じだと」
(言われてみればそうだよな)
感覚としてはわかっていたのだが、今ひとつ認められなかったことをようやく鷹志田は受け入れた。
あんな人間はまずいない。
眼が異常に外に出ているという点からして、なんらかの奇形という様子だが、それで収められるという見た目ではない。
裾から伸びる白い肢からしてもバランスが悪くて気味が悪すぎる。
雰囲気といい、こちらに向けて放つ気持ち悪さといい、まるでホラー映画さながらの不気味さではなかったか。
まだ理性が邪魔をしている。
宇留部の人々は一族の問題としてもう感覚的に受け入れてしまっているので、どうも違和感がないようだが、理性の世界で生きてきた現実的な弁護士には果たして受け入れがたい内容であった。
しかし、ただの一度でも目撃してしまえば、あれがそういうものだということを納得するしかない。
その上で考えなければ。
「左前の着物を着ていた時点でそうかと。ああ、そうですよね。コスプレとか特殊メイクではないですよね。……なんてこった」
まずは事実として認める。
そこがスタートだった。
「じゃあ、なんでその幽霊―――もう悪霊みたいなものか―――が人を襲うんです。恨めしいからですか?」
「それは……わかりません。私ももう二十五年ここに住んでいますが、『ダイシ様』に出会ったことはありませんし、傍にいると感じたこともありません」
「それは私もです。もう三十年前になりますけど、二十歳までここで暮らしていましたが、一度たりとも幽霊なんてものを見たことはないですし……。それは姉たちも同じなはずです」
刀自の娘である菊美までが同意した。
霊感とかそういう非現実的なものを信じたことはないが、ここはその証言を信じるしかないだろう。
鷹志田は腕を組んで考えた。
「では、あの化け物は急に現れた。今日この日に限って。そういうことになりますね」
「そうですね」
「今まで―――菊美さんの子供時代からですから五十年間―――でてこなかったのに。どうして?」
「さあ」
「……今日何があったかを考えてみると、僕たち親族が集まって、弁護士先生が来て、お祖母ちゃんが死んだことぐらいかな」
その中で最もトリガーになりそうなものは、刀自の死だろう。
鷹志田の来訪はあまり意味がなさそうだ。
もちろん、鷹志田がこの家に何かの関わりがあれば別だが、そんなことはないはずだった。
「つまり、青子婆ちゃんが死んだのが原因だということかよ?」
「その可能性は高い。他を排除するわけではないけど、それに絞ったほうがいいかも」
「じゃあ、なんだい? そいつは婆ちゃんがバケた姿ってことかい?」
「いや、多分、違う」
思い出すに、あの化け物は刀自の死体を損壊して遊んでいた。
少なくとも自分の死体を玩具にする趣味のある人間はいないはずだ。
たとえ、バケて出たとはしても。
死体を壊すという行為にはその人物に対する怒りや憎しみのようなものが感じられる。
刀自に対するそういった負の感情があると思うのが普通だ。
「―――そうか。とりあえず、刀自も犠牲になったと考える余地はあるのか」
「お祖母さんが?」
「ええ。彼女の死も実は殺されたものなのかもしれない」
すると、トリガーが刀自の死だというのもなくなる。
そうなると、鷹志田の来訪が一番の原因ということになるのだが……。
親戚ですらない弁護士にはまったく覚えのないことであった。
「わかんなくなっちゃったね」
「なあ、それよりも『ダイシ様』というのはなんなんだよ。ほら、殺人事件でいうところの動機が大切なんじゃねえか」
静磨の言うことは一々もっともであった。
「ダイシ……というのは、こう書きます」
近くにあったメモ帳に、舞衣が「大姉」と書き記した。
普通ならば「おおねえ」か「おおあね」といったところか。
だが、どこかで見た覚えがあると鷹志田は思った。
「大姉とは、女性の死後の戒名の下につける称号のことをいいます。居士の反対語ですね。我が家では翻って、亡くなった以前の当主のことを指すようになっています」
「戒名ですか……」
戒名というのは、死後の世界(浄土)で仏教徒になった証として授かる名前のことをいう。厳しい戒律を守って仏門に入った人が授かる名前のことなので、この世の名前である「俗名」とは区別されることになる。
あの世で使う名前が「戒名」となる。
宗派によって多少の違いはあるが、基本的に戒名は身分の上下や精進、報恩の多少に関係なく、仏の世界が平等であることを表すと言われている。
鷹志田は以前出席した葬式での記憶をひっくり返した。
確かに、大姉と最後についていたものを見た覚えがある。
なるほど、死人に相応しい名前だ。
左前の着物、戒名、異常な雰囲気。
あれでオバケでなければなんなのだというのだろうか。
「死んだご先祖が生き返って、俺たちを襲っているってのかよ。―――そりゃあ、俺はまだ見てねえからなんともいえねえけどよ。バカみたいだぜ」
「そのわりには信じているようですけど」
「俺だって、青子の婆ちゃんには世話になったし、その際にそんな昔話を聞いたことがあるからさ。なあ、菊美おばさんもそうだろ」
今までほとんど会話に参加していない、三女の菊美も頷く。
「昔、お母さんに聞いたことあるけど、どちらかというこういうのは喜世子姉さんばかりに言っていたみたいだから、私はよく知らないのよ。私たちって、この家から出たら他人ってことになっていたし、遺産だって本当はほとんどもらえないはずだったから……」
「財産?」
「ええ、うちのしきたりでは喜世子姉さんだけが相続することになっていて、私たちは一銭ももらえないはずだったの」
例の長姉相続というやつか。
鷹志田は久しぶりに弁護士らしいことを頭に巡らせた。
もし、琴乃夫婦、寅彦、清美が死んでいるとしたら、刀自の財産を相続する面子はかなり入れ替わることになる。
単純計算でいえば、舞衣と菊美が四分の一ずつ、武が琴乃と幸吉の分を継いで四分の二ということになるはずだ。
刀自の死後、一度、相続がなされていると解するのならば。
ただ、これには問題がある。
刀自の死亡確認がなされていないのだ。
親族だけが青子が死亡していると主張しているだけで、第三者の確認がない。医者どころかその場にいあわせた弁護士である鷹志田でさえ見ていない。
となると、死亡の順番が入れ替わるおそれがでてくる。
同時死亡による相続の可能性もあるのだ。
すると、相続分の計算がやや変動することもありうる。
「やったぞ!」
いきなり今まで菊美よりも静かだった武が大声を上げた。
手にはなにやら紙が握られている。
なんだとみなの視線が集中した先で、武は言い放った。
「オヤジとお袋が死んだのなら、俺が祖母さんの遺産の相続人になるじゃないか! よし、俺にも運が回ってきたぞ!」
この場にいた親族全てから送られる蔑みの眼差しを気にもせずに、宇留部武はとても楽しそうに笑うのであった……。
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