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戦慄の朝が来て
「朝か」
静磨が呟くと、居間にいる全員が一睡もできなかったことに気がついた。
鷹志田がおそるおそるカーテンを開けると、東の空が白んでいる。
雨はまだ降っているが、ようやく太陽が昇ってくれたようだ。
全員がほっと息を撫で下ろした。
オバケがでるのは夜。だから、昼間になれば安心。
「とりあえず、昨日から誰も外に連絡していないんだ。誰かが様子を見にきてくれかもしれないな」
「そうなればいいですね」
「まあ、逃げ出す手段ぐらいは考えようぜ。車が動かせればいいんだけどよ」
「静磨さんは乗ってきていないのですか?」
肩をすくめて、口笛を吹く気障な仕草をする。
「その日暮しの派遣が車なんぞ維持できるわけねえだろ。ここまで来たのだってバスさ」
日当の額を考えると、車を購入したり維持するためのまとまった貯金を派遣社員はすることが難しい。
むしろ、自由は利かないがある程度固定のバイトをするフリーターの方が車を持つ場合には向いているといえる。
ただ、派遣先に行く場合に車通勤が許されることはないので(通勤時に事故に遭っても派遣会社が責任をとりたくないためまず認めないからだ)、今の生活を続ける上では車を持つ必要性がない
静磨は特に現状に不満は持っていなかったので、バスでの移動もさして苦にはならなかった。
「あの、ちょっといい」
小夜子が小さく手を挙げた。
何かを堪えているような深刻そうな顔色をしている。
病気かもしれないと慌てて何があったのかを聞くと、
「……トイレ行きたいんだけど」
気恥かしそうにいう二十歳の女性。
一瞬、どうして自分たちに生理現象について話しだしたのかわからず、「トイレだったらどうぞ行ってきてください」と答えそうになる鷹志田。
だが、さすがにすぐに気づいた。
トイレに行くということは、一人になるということだ。
一人になったらどうなるか、今の宇留部の屋敷の中では火を見るよりも明らかだった。
ダイシ様に会う危険がある。
それは殺されることと同一視されることだ。
「確かに一人で行くのは危険ですね。それにみんな一晩中、ここにいましたから誰もトイレを済ませていないですし……」
少し思案してから、
「では、みんなで行きましょうか。一人で行くよりもまとまって行った方が警戒もしやすいですし、いいでしょう」
「そうですね。恥ずかしいですけど、一人で行動するよりもいいです」
鷹志田の提案に舞衣が乗った。他の全員も事情は同じだったらしく二つ返事だったが、菊美の長男である智だけが嫌そうに首を振る。
「……家族で連れションかよ」
「智(さとし)、あんただけは一人で行けば」
「げっ、それはさすがに……」
「じゃあ、文句言わないの。あたしは一刻も早くトイレに行きたいんだから」
「へいへい」
姉弟の他愛のない会話を聞いているとき、鷹志田はテーブルの上に一枚だけ乗っている武手書きの相続図を目にとめた。
(そういえば遺言状の作成途中だったなあ。たった半日前のことなのに、ずっと昔のことのようだ。ワードで作っていた最中で、ほとんど放り出してきてしまった。きちんと保存したっけ)
と、久しぶりに仕事のことを思い出した。
(あとでパソコンを持ってこないと。あ、ついでにさっき話に出た刀自の本を取りに行くか)
そこで、ぞろぞろと連れ立ってトイレに行こうとする一行に、彼は言った。
「すいません、私、自分の部屋にパソコンと例の本を取りに行ってきます」
舞衣が心配そうに言う。
「大丈夫ですか。一人で」
「なら、俺がついていくよ」
「静磨くん……」
「そっちは武兄さんと智がいるから、男手は足りるだろ。化け物がでても二人がかりならなんとかなるし」
実際にダイシ様と接したことのあるものたちには、その静磨の楽観的な考えに納得することはできなかったが、異論を唱えることはなかった。
そうして一行は二手に分かれて行動することになった。
トイレに行くのは、舞衣、武、小夜子、智、菊美の五人、鷹志田と行くのは静磨。
静磨と連れ立っておそるおそる部屋に向かうが、途中でダイシ様に遭遇することはなかった。
「よし、いない」
「―――静かなもんだな」
「むしろ、そっちのほうが怖いんですけどね。この微妙な暗さが困りますよ」
「本家は造りが古いからな。あたりかまわず暗がりがあるから、スリル満点といえば満点か」
「……楽しくはないです」
部屋に入ると、昨日から何も変わっていない。
さっとパソコンをカバンの中に入れて、出していた荷物をしまい込む。
目当ての本も確実に回収した。
「それは……見覚えあるぜ」
「ほお」
「見た目がボロいから読む気もしなかったけどさ」
「でしょうね」
仕事柄古い書籍に目を通すこともある鷹志田でも、これだけ古いとあまり読む気はしない。
昨日、どういうつもりで手にしたのか自分でもよくわからなかった。
「戻りますか」
「ああ」
部屋の外に出て、居間に戻ろうとした時、その足がぴたりと止まった。
二対の視線が一点に集中した。
彼のいる反対側。
窓がないことから光の射さない、何もない屋敷の廊下に。
暗がりから最初は黄色く浮かび上がった白い皮膚、病的に痩せた手足を朱いかすりの着物から垂れ下がらせて、気の毒なぐらいにぼうっとこちらに歩み寄ってくる。
撫で肩という言葉は当てまらないぐらいに骨ばったところのない、軟体生物のような不自然な体つきをして、引っ詰めた髪の下にある双眸には以前と同じように眼が飛び出している。
それでも前はしっかりと見えているのか、ふらつきもせず壁にぶつかる様子もない。
彼らが傍にいることを分かっていないはずがないのに、一向に気にする気配はなく、ただただ歩き続けている。
歩行という単語に似つかわしくない滑るような動きだった。
その化け物―――ダイシ様は影を纏いつつ、怖気を引き連れつつ、屋敷の廊下を進んでくる。
あまりのことに鷹志田たちは呼吸さえも忘れてしまった。
自分たちの肩ほどしかない細い華奢な身体だというのに、ダイシ様は確実に死に至らせるに違いない恐怖を彼らに与えていた。
すいーすいーとついに二人の前に達し、そして過ぎ去っていく。
人ならざるモノが目と鼻の先を歩き去るという貴重で恐ろしい体験であった。
何よりも彼らの方へ顔こそ動かさなかったが、飛び出た不気味な両眼がちらりと横目に見たのがわかったのが恐ろしかった。
間違いなく、ダイシ様は彼らを認識していたのだ。
だが、何か特別なアクションを起こすこともなく、そのまま立ち去っていく。
その枯れ枝のような後ろ姿が廊下の角を曲がりきった時、ようやく二人共呼吸というものを思い出した。
荒く何度も呼吸を繰り返し、ぜいぜいと息を吸って吐く。
背中が汗で冷たくなっていた。
緊張で耳の奥までが痛くなっていた。
「あれが……ダイシ様かよ……」
青くなった顔で静磨がいう。
思っていた以上に、あの化け物に恐怖を感じてしまったのだろう。
「見逃してくれたのか……」
言っていて納得できなかった。
あの化け物が琴乃を闇の中に引き釣りこんでいったのを鷹志田は目撃していた。
幸吉を殺害したシーンは見ていないが、殺したであろうことはわかっていた。
それだけ危険で凶暴なオバケが、自分たち二人に何もしなかったという事実が受け入れられない。
助かったのだから、それでいいとは思えなかった。
理不尽すぎて割り切れないのだ。
なにがあったのか、それがさっぱりわからない。
理解が追いつかないのだ。
「とにかく、戻りましょう……」
「ああ。ちょっと待てよ」
「なんです。さっさと行きましょうよ」
「さっきのアイツ、そこを曲がったよな?」
「そうですけど……あ」
ダイシ様が曲がった角は、彼らが来た居間へと続いている。
もしあのままアイツが進むとしたら……。
「ヤバイ。オバちゃんたちがヤバイ!」
「ちょっ、お、追わないと!」
「だけどよ、追ってどうすんだよ!」
「とりあえず行きましょうよ。何かあったら、何かあったで!」
「適当だな、おい!」
二人は転がりそうな勢いで、ダイシ様のあとを追った。
その先に、もしかしたら惨劇が待っているかもしれないのに。
そんなことを一切考えている余裕がなかったのだ。
ダイシ様との接触はそこまで二人の思考に危機的な穴を開けていた。
後を着けた二人が覗き込むと、しばらく進んだ先にいたダイシ様がすうーっと居間の中に滑り込んでいくシーンが目に入った。
音もなく浮いているかのような旋回だった。
息を呑む二人。
もし、そこに誰かがいたらどうなっていたか……。
助かったことに、みんなはトイレに行くため、そこにはいない。
しばらくして、何の気配も感じないことからさらに様子を見ようとしたが、入っていった時と同じようにダイシ様が居間から出てきた。
何かあったようには見えない。
だが、その時、鷹志田はさっきとは違う変化にいち早く気づいた。
朱い着物から伸びた手に、さっきとは違い、何か白いものが握られていたことに。
(なんだ、あれ)
と彼の思いはすぐに別の衝撃に打ち消された。
「げっ!」
なんとダイシ様は居間から出ると、目の前の窓を開けて、まるで這いずるような姿勢のまま外へと出ていこうとしたのだ。
普通、高い位置にある窓から外に出るためには、足を高く上げてよっこらしょと跨ぐ形になるはずである。
それなのに朱い着物の化け物は、上半身を覆いかぶせるようにして身体を曲げて窓の棧に乗ると、両足を伸ばして揃えたまま、蛇のように上下にくねりながら外へと出て行くのだ。
人の姿と大きさをした奇怪な蛇を目の当たりにしたかのごとき気味悪さであった。
思わず吐き出さないように口を抑えてしまうほどに。
(冗談じゃない! なんだ、あの気持ち悪い動きは!)
そんな有り得ない動きを見せてダイシ様が廊下から去ると、静磨がおそるおそる窓に近寄った。
それからそっと覗き込むように外を見る。
「いないぜ……」
静磨の声にほっとする自分がいることに鷹志田は気づいた。
どれだけ恐怖というものに縛られていたかがわかる。
肩があまりにも強いストレスと緊張で痛くなっていた。
静馬の後を追って近づき、同じように窓から外を眺めてみたが、やはりあの奇怪な化け物は影も形もない。
どこかに行ってしまったようだ。
篠突く雨の中、水煙の彼方に化け物は消えたのか。
「あれは、マジでやばいな……」
「だから言ったでしょう。一人でいたら殺されるって」
「二人でもやべえだろ」
「まあ、そうですけど」
「でもよ、どうして俺たちは無事なんだよ。あんたの話だと、あいつは無差別で俺らを殺すつもりじゃなかったのか? あの野郎、確実に俺たちを見てたけど無視しやがったぜ」
「―――それは確かに変です。見逃してくれた、とかいういい話じゃなくて、完全に無視された感じでしたよね? 静磨さんもそう感じましたか?」
静磨も頷く。
「ああ。アウト・オブ・ガンチューというか、いてもいなくても変わらないという感じだったな。俺たちにはなんの興味もねえと」
「―――それに居間から、なにか持ち出していましたよね。あれ、なんだったんでしょう?」
「ちょっとよく見えなかったな。しかも、あのあとのショックがでかすぎてさ」
「気持ち悪かったですよね。……ムカデ人間を思い出しましたよ。あの気持ちの悪いグロ映画の」
「それなら俺もトレーラーだけ見たぜ。最悪だったな」
二人はとりとめもない会話をした。
さっきの光景をなんとか別のもので上書きして忘れてしまえるように。
キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア
どこからか女の悲鳴が聞こえてきた。
思わず顔を見合わせる鷹志田たち。
悲鳴には聞き覚えがあった。
それは間違いなく、この屋敷にいる誰かのものに間違いはなかった。
誰だ?
誰が叫んでいる?
まさか、また、誰か……死ぬのか!
そうだね。
また、死ぬよ。
間違いなくね。
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