14人が本棚に入れています
本棚に追加
逃げる男
宇留部静磨は、本来、怪異に怖気づいて逃げ出すような気の弱い男ではなかった。
豪胆とまではいかなくても、それなりに胆のすわった人間のはずであった。
ものすごく仲がいいとまではいかなくても、嫌いあっている訳でもない再従兄弟たちを見捨てて逃げ出すなんてありえないはずであった。
だが、朝方に妖々と廊下を進むダイシ様を見て、そして、ついさっき逃げ出そうとした小夜子のもとへ現われた姿を目の当たりにしたとき、静磨は耐えられなくなった。
気がついてしまったのだ。
あの朱いかすりの着物の女が、「似ている」ということに。
ひっつめた髪型を解き、飛び出た眼球を普通のものに入れ替え、生きているものとは思えぬ青白い肌を血のかよった人のそれになれば……
ダイシ様は―――母や祖母によく似ていた。
それどころか、再従姉妹の舞衣や小夜子も十分すぎるぐらいにそっくりだった。
もし、あの二人が悪ふざけで特殊メイクでも施したら、ほとんど瓜二つになるかもしれない。
静磨が見たのは、親戚の女たちの面影だけなのである。
ただ、ダイシ様が撒き散らす異質さや不気味さは決して人がだせる類いのものではないため、誰かが悪ふざけで変装しているとは思わない。
しかし、それだけで十分だった。
もう一緒にはいられない。
これから先、もしこの場を運良く切り抜けられたとしても、そのことを思い出さずにはいられないだろう。
舞衣たちと顔を突き合わせるたびに、あの冷え冷えとした怖気の走る貌(かお)を想起しなければならないかと思うとぞっとしない。
もしかしたら鏡をみることさえもできないかもしれない。
宇留部の血を、静磨とて引いているのだ。
自分の顔にあんな化け物と似通った部分を見るなんて耐え切れない。
そのことに気付いた途端、もうすべてに我慢できずに静磨は逃げ出すしかなかった。
あの化け物は、化け物じゃない。
―――宇留部家の血筋が生み出した悪夢だ。
だからこそ、あんなに恐ろしいのだ。
彼のよく知る親戚の女たちのことを、多少の問題はあったとしても、今までおかしいと感じたことはなかった。
彼の母親についてもだ。
だが、本当にそうだったのだろうか。
どいつもこいつも彼には見せたことのない裏の顔を持ち、悪魔の顔をして影で皆を嘲笑っていたのではないか。
かつて離れに住んでいた遠縁の親子がいなくなったのは、実は誰かに殺されてしまったからではないのか。近所に大塚のおばさんしか住んでいないのも宇留部の異常性に気づいて近づかないようにしているからではないのか。
こんな山奥に住んでいるのも、ただ単に人里から追い立てられた結果ではないのか。莫大な資産を持っているのも、人には言えないおぞましいことを繰り返してきたからではないか。宇留部の分家筋の政治家のおじが本家の言いなりなのは人知れず悪辣な真似を行ってきたからではないのか。小夜子が狂ったようになったのも血筋に異常があるからではないのか。舞衣の美しさも人の血を浴びているからではないのか。武が財産ばかりに固執する欲深い人物なのもすべて宇留部の血を引いているからではないのか。
一度でも疑ってみればすべてが疑わしい。
宇留部という一族に対する不信感が一気に静磨の脳裏を駆け巡った。
だから、もう駄目だった。
一瞬でも一緒にはいられない。
静磨が逃げ出したのはダイシ様についてではない。
理不尽にも、彼の全身を突然覆い尽くした不信感そのものから、血の繋がった親戚から、一歩でも遠ざかりたかったのだ。
「……すまねえ、舞衣さん、すまねえ、小夜子、俺はもう駄目だ」
静磨は薄くつぶやいた。
逃げればどうにかなるとは思えなかったが、恐怖症じみた震えと怯えに抗えるほどの力は彼にはなかった。
ついさっきまで感じたことがないものだからこそ、予兆もなく噴火する火山のように激情となり、後先を考えない愚行にでさせるのだとも把握していなかった。
それだけ静磨にとっては唐突な衝動でもあったのだ。
プリウスの電子キーを押す。
駐車場にあるプリウスはなんの反応もしない。
普通ならロックが解除される。
何度繰り返しても反応はない。
ドアを開けようとしたがロックがかかったままだ。
もしや壊れたのか、それとも電池切れか?
雨の中に放置されていたのだから、前者の可能性が高いが、これがなければ逃走はできない。
静磨は側面から、手動で開くためのキーを取り出す。大体の仕組みは理解していた。
震える指で鍵穴にはめて、ねじる、ガチャ。
濡れた身体を中に押し込んだ。
すかさずエンジンボタンを押す。
が、動かない。
全面の小さなディスプレイに「キーを押し当ててエンジンをいれてください」とでた。
これはキーの電池が切れかけているからなのだが、持ち主でない静磨にわかるはずがない。
リモートアンロックが反応しなかったのもキーの電池切れが原因なのだが、それも同様だった。
一瞬、意味がわからなかったが、すぐに頭を回転させて、キーをボタンに当ててからもう一度押す。
ほとんど音も立てずにエンジンが掛かり、ディスプレイに各種ゲージが映し出される。
カーナビも同時に起動し、測位した。
ETCカードは入っていないが、そんなものはどうでもいい。
「よし」
シートベルトもしめずに、静磨は左足でハンドルブレーキを外し、アクセルを踏み込む。
アイドリングはしない。
外の寒さですぐにはエンジンが温まりはしないだろうが構わない。
一分一秒でも早くここから立ち去りたかった。
静かにスタートしたプリウスはすぐに駐車場を抜けた。
もし、インプレッサかエブリイであったなら、エンジン音でダイシ様に気がつかれたかもしれない。
そのあたりはラッキーであった。
プリウスは電気を動力とするとき以外でも、音は静かで通行人にすら気取られないことがおおいからである。
整備された道に出て、左に曲がる。
かなり遠いがまっすぐに道なりに行けば奥多摩駅の方角にたどり着くはずだ。
このあたりでは他の車も通ることはないが、人目が増えればそれでさすがの化け物も追っては来られないだろう。
なにより運転中の車の中にいる人間を襲うことができるものか!
「助かったか……?」
静磨が安堵の吐息を発したとき、ガタアアアアンととんでもない衝撃が運転席の彼を襲った。
頭がハンドルに思いっきりぶつかった。
シートベルトをしていなかったせいだ。
プリウスのスピードメーターは二十キロに達していないのでエアバッグはでなかった。
まだこれから速度をあげようとしたときだったからだ。
思わず、ブレーキを踏む。
このままアクセルを踏めば事故の恐れがある。
プリウスは完全に道の真ん中で停車した。
後続車があれば玉突き衝突があたりまえの乱暴な挙動だった。
「なんだってんだ! クソが!」
事情がわからず喚き散らした静磨が顔を上げると、やや高いプリウスのボンネットの上に、黒いものが載っていた。
いや、黒く見えただけで、実際には紅かった。
朱かった。
フロントガラスに張り付くように、顔を近づけて舌をだし、彼を睨みつける女がいた。
決して逃がすまいと狂気すらまとわりつかせて。
「うわああああああ!」
静磨はハンドルを右に切り、思わずアクセルを踏み込んでしまう。
プリウスの右前面がガードレールにぶつかり、ガガガガガガガガと数メートルを削りながら進む。
ハイブリッド車は軽く作られているため、表面はもろい。
前面は簡単に凹んでクラッシュした。
スピードこそでていなかったからこそ、むちうちのように身体を傷めずに済んだが、これ以上は車が前へ進まなくなった。
静磨は左手でシフトレバーをいじり、「D」から「R」に切り替えようとする。
玩具のようなプリウスの運転席の、指だけで動かせるレバーであった。
だが、いきおいあまって隣の「B」にしてしまう。
これでは前進するだけだ。バックはできない。
しかし、混乱している静磨はすぐには気がつかなかった。
アクセルを踏んでもガタガタいうだけで一向に後ろにいかない。
切り替えせない。
そこで、ようやく気がつく。
「R」にギアが入っていないことを。
慌てて切り替えて、顔を上げるとすでにボンネットの上には何もいなかった。
さっきどこからともなく現われたダイシ様がいない。
静磨は恐慌をきたした。
幻でも見たのかと。
だが、違う。
彼は知らなかった。
ついさっきプリウスを走らせようとした彼を確認するなり、崖の上から落下してきた朱い着物の女は傷一つ負わずに車体から降りると、助手席側に回り込み、中を覗き込んでいることを。
飛び出た黒い眼球もどきが静磨を捉えていた。
ドアを簡単に開くと、中に上半身だけを躍りこませる。
プリウスがバックを始めたのはその時だった。
開きっぱなしの助手席のドアがいきなりかかったバック走のせいで、化け物の身体を後ろへと持っていく。
おかげで上半身が車内にあっとしても、ガタガタと下半身が隙間と道路のアスファルトの間に挟まれて赤い肉の削れたあとを残す。
ガチャン。
負荷がかかっていたせいで衝撃とともにプリウスのドアが壊れて外れる。
かろうじて上の部分がつながっていたものの、人で言うのならば皮一枚で腕が残っているようなものだった。
落とされまいと伸ばされた冷たい手が静磨の左手の二の腕を掴む。
「ひぃ!」
恐ろしさのあまりひきつけを起こすが、振り払うことはしなかった。
できなかった。
立てられた鋭い爪が肉を何センチも抉っていたからだ。
凄まじい力で静磨の身体が引っ張られる。
ハンドルを握る両手はあまりの恐怖に強ばって離すことさえできない。
そのため、静磨自身が女のために支えているような皮肉な結果となる。
女が身体をさらに深く侵入させた。
晒された素足はプリウスに引きずられたせいで血まみれになりシートを穢す。
肩を抱きかかえられた。
ゴミ溜めのような臭気が室内にこもる。
これが化け物の体臭だ。
静磨はもう一切横を見なかった。
見れば終わる。
そう思っていた。
だが、そんなことはなかった。
横にいる、まるで正座でもするかのように助手席に鎮座する女を見なかったとしても……。
静磨の二十七年の人生はもう絶望的になっていた。
ガブり。
最初のコメントを投稿しよう!