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宇留部舞衣
弁護士の推理を信じるのならば、舞衣はあの気味の悪い恐ろしい化け物に狙われることはないはずだ。
なぜなら、彼女が次の宇留部本家の当主なのだから。
母の喜世子が亡くなった今となっては、長姉相続の対象という意味でならば、彼女でなければならない。
だから、屋敷内を自由に動けるのは舞衣だけということになる。
だが、それはかの推理が的を射ていた場合だ。
正直な話、完全に信じ切れたというわけではない。
培ってきた理性というべき昼間の常識が、弁護士のいうことを否定するのである。
現実に直面しているとはいえ、あまりに荒唐無稽すぎたのだ。
財産の散逸を防ぐために長姉相続をさせるために化け物が暴れているなどということを素直に受け止めることはできなかった。
おそるおそる自分の家の中を歩く前に、突然、あのダイシ様が現れて、今度は彼女を拐っていこうとしないとは決して言い切れない。
しかし、もう舞衣には選択するべき道がなかった。
もう捨て鉢になっていたと言ってもいい。
もし、あの朱いかすりの着物が目の前に現れても仕方がない。
これだけの人が死に、連れ去られ、どこかに行ってしまったというのに自分だけが絶対に助かるなんて微塵も思えなかった。
だったら、もう開き直るしかない。
それに長姉相続という習慣について、彼女も幾つか知っていることがあった。
(長子相続は本来、武家の習慣だったはず。農家においては、女が家を継ぐことがわりとあったって聞いている)
姉家督と呼ばれ、第一子が長女であるときにだけ、長女が婿をとる慣行も存在したが、男の長子相続が完全に定着したのは明治政府による制度の固定のためである。
長姉、つまりどのような場合でも長女が婿をとり、家を継ぐのは、農家を経営するために労働力を産み育てるために女が戸主になるのが合理的という発想があるからだ。
夜這いの風習や、旅人による一夜の夫を頼むというのも、女が家にいつくための手段と見られている。
現代の人間が思う以上に、地方においては女の地位は高かったのだ。
男のみを大切にする信仰にも似た考えを持つにいたった農家が増えたのは、近年というよりも、武士を中心とした「家」観をもった家庭が増えた結果である。
いくさに出るわけでもないうえ、たいした歴史もない家柄なのに、武士の真似事をしているともいえた。
宇留部家は古い旧家であるため、長姉相続を続けていたのかと思っていたが、実際のところは違っていたのかもしれない。
財産散逸を防ぐために、ダイシ様などという化け物が発生するのはどう考えても行き過ぎだ。
おそらくは何かもっと切迫した理由があったのだろう。
ただし、それがなにであるのかについては舞衣が知ったことではない。今わかったところで何の役にも立ちはしない。
彼女が望むのは居間にいる生き残った親族が死なずに済ませられることだけだった。
子供の頃から住んでいる家なので、警戒しながらでもすぐに部屋についた。
以前、自室に入ってから一日も経っていないが、まるで一年以上も留守にしていたような錯覚に囚われる。
現実味が欠片もないのだ。
鷹志田を迎えに行くために一度着替えた私服が無造作にベッドの上に脱ぎ捨てられていた。
思わず、手に取り畳んでしまう。
誰かに見られたくなかったからだ。
自分が逃避しかけていること気づくと、舞衣はパソコンラックの上に乗っているプリンターを下ろす。
電源コードをコンセントから抜き、USBコードも自分のパソコンから外した。
紙は何十枚か入っている。
少し重いがそんなことを気にしている場合ではない。
舞衣はプリンターを抱えると、部屋を出た。
これがすべてを終わらせる切り札になるのか。
鷹志田の言うとおりになるのか。
それはまだわからない。
ただ、舞衣ができることはもうこれしかないのだ。
「ひっ!」
舞衣は呻いた。
廊下の端に朱いかすりの着物の女が立ち尽くしていた。
白い足を晒して。
こちらを見ようともせず。
マダム・タッソーのおそろしい蝋人形のように立ち尽くしている。
真に恐ろしいのは女が壁の方を向いているという点だった。
長い廊下の漆喰の壁に額をこすりつけるように。
まるで壁を向いてにらめっこをしているという状況なのだ。
背後には人一人抜けられる程度の空間はある。
そして、そこを通らねば居間までたどり着けない。
プリンターを抱えたまま、舞衣は一歩進み出た。
明らかに人間ではない、しかも生きているわけではないものの後ろを通り抜けるということがどれほど薄気味悪いことなのかということを、舞衣はじっくりと体験することになった。
まず、耳から入ってくる情報が恐ろしい。
ふぅ。ふぅ。ふぅ。
呼吸音のような音がリズムよく聞こえてくるのだ。
しかも寝息のように生命活動を持続させるためのものとは思えない、破れ窓からはいってくる隙間風を連想させる音。
耳にしただけで舞衣の脊髄を冷たく凍えさせる。
次に、ひやりとした空気だ。
冷蔵庫を開けたときの人工的なものとは違う、毛穴に酸性のクリームが染み入ってくるかのごときひりひりとした冷気。
どこからそんな空気が漏れているかしわからない。
ただ、確実にその冷たいものは舞衣の剥き出しの肌に触れ、ミミズが這い回るように皮膚を不快にさせる。
思わず掻きむしりたくなる気持ち悪さだった。
さらに、それだけではない。
漂う臭いも最悪だ。
酸っぱい反吐を思わす、夏場の汗だくの中年男性のものよりもきつい臭いが鼻腔を刺してくるのである。
舞衣はその臭いに覚えがあった。
菊美が連れ去られたトイレで嗅いだ臭いだ。
まさしく腐りきった死者の香り。
鼻腔を塞ぎたくなったが、両手にはプリンターが乗せられているので動かすことはできない。
だから、ゆっくりと気取られないようにする動きの中でなんとか舞衣は必死にこらえた。
すぐ後ろを通り過ぎるとき、呼吸音に合わせて、またも得体の知れない音が聞こえてくる。
今度は何よ、と怒鳴りたくなったが、わざわざ自分の存在をアピールすることはできない。
望んでもいないのに、その音が耳朶に響く。
途端、思わず化け物の方を見てしまった。
耳にした単語が信じられなくて。
(まさか……まさか……)
朱いかすりの着物の女はぶつぶつと名詞を口にしていた。
同じようなものを何度も何度も。
それは―――
「……舞衣琴乃菊美清美民子小夜子智武慎之介浩一喜世子聡恵貴敏瑞江まつ紀彰雅人舞衣慎之介琴乃清美青子小夜子智武慎之介浩一喜世子幸吉彰二舞衣武聡恵貴敏瑞江まつ民子大地穂乃果琴乃菊美小夜子智武青子大蔵慎之介浩一……」
一族の―――彼女と同じ宇留部のものたちの名前であった。
遠い親戚もいれば、静磨の祖母の名前もある。知らないのもあった。
ただ、わかるのはそれがすべて宇留部の一族に連なるものばかりという点だけだ。
呪詛のように、思い出すかのように、懐かしささえも感じさせる嗄れ声で、ダイシ様はつぶやき続ける。
特に多いのは、舞衣と青子のものだった。
自分の名をこれほどまでに昏い響きを持って口に出されると、湧き出してくるものは恐怖しかない。
舞衣という名前に嫌悪感さえ覚えた。
口の端にのるだけで不快だった。
「……青子大蔵慎之介浩一まつ琴乃菊美民子小夜子智武慎之介浩一喜世子聡恵貴敏瑞江まつ紀彰雅人舞衣慎之介琴乃清美青子小夜子智武浩一喜世子幸吉彰二舞衣武聡恵貴敏瑞江まつ民子大地穂乃果琴乃菊美小夜子智武……」
後ろを通りすぎるだけのわずかな時間でも背筋が寒くなるような不気味さがあった。
その場をなんとか抜けて、居間に達した舞衣の全身には疲労しかなかった。
ただの疲れではない、魂そのものが鷲掴みにされてもみくちゃにされたかのような泥にまみれた疲労。
殺されなかった。
遭遇したのに。
それだけは安堵できる。
しかし、その身に負った恐怖は耐えがたい傷を心に与えていた。
舞衣ははっきりと理解したのだ。
あれは自分たちの一族そのものなのだと。
いつか私もああなるのかもしれない、と。
なぜなら、あのダイシ様は―――ダイシ様は―――化け物は―――彼女の母である喜世子だったからだ。
あの声は―――記憶にある母のものに酷似していた。
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