書類にサインを

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書類にサインを

 トントン  居間の扉をノックする音が聞こえた。  この屋敷の中において現在進行形で起こっている事態を考えると慎ましいくらいの音だった。  びくりとしたのは宇留部武だった。  彼は目の前にいる気に食わない弁護士によって、「ダイシ様に狙われている」とはっきりと指摘されていた。  そのせいか、起こりうるすべてのことが彼を殺すために費やされているのではないかという妄想を抱きかけていた。  だからか、聞こえてくる音はみんなダイシ様の放つものということに脳内で転換されていた。 「……舞衣さんですか」 『はい、私です。プリンターを持ってきました』 「じゃあ、すぐに開けます」 『それは止めてください』 「なぜです?」 『私のすぐそばにダイシ様がいます。ここを開けたら、おそらくすぐにでもそっち雪崩込みかねない様子です』  舞衣から聞こえてくるくぐもった言葉はまさに驚くべきものだった。 「状況がわかりません。貴女は大丈夫なのでしょうか?」 『はい、先生のおっしゃるとおりでした。ダイシ様は私を襲うつもりはないようです。ただ、そちらの居間に繋がる壁の方角を向いてずっと立ち尽くしているので、まだ諦めたりはしていないようです。今のところは変化がありません』  冷静に自分の置かれている状況を分析する従姉妹に対して、武は恐怖さえ感じた。  男の自分が恐ろしさのあまりおかしくなりそうだというのに、なんという生意気な女だ。  女といえば、宇留部の女はみんなこうだ。  婆あといい、お袋といい、血を分けた子であり孫である俺をバカにしやがって……。  武は離婚の時のことを思い出していた。  妻の雇った大手事務所の弁護士(妻の家は富裕な会社経営者の出身であった。そのコネという話だ。彼女が武と結婚したのは、奥多摩の古い家柄であるということと父親によく似た美男子だったからだ。それ以外にはない)によって、莫大な慰謝料を請求されたのに、祖母は一銭も援助してくれなかった。  それどころか、「宇留部の財産をおまえなどには渡さないよ」と吐き捨てられた覚えがある。  思えば初孫で男子である自分を蔑ろにする嫌なババアだった。  母親も気位だけは達者で役に立たないババアだった。  従姉妹の女も孫の中では最年長の俺を見下すふざけたビッチだった。  とにかく宇留部の女はどいつもこいつも気に入らないメス犬ばかりだ。  ―――今日のことを考えれば、長姉相続を徹底するための手段なのだが、武の頭には恨みつらみしか浮かばない。  だが、自分の命を大事にするならば、財産を放棄してでもあの化け物をやり過ごさなくてはならないだろう。  さすがの彼も自分の命と引き換えに金を手に入れたいとは思わなかった。  断ち切れない未練はあっても。 『……ただ外へ回りこむとなると難しいかもしれません。時間がありませんから試してみますね』 「いや、止めてください。今、ダイシ様が何もしていないというのならばここで下手に刺激するのは避けましょう。プリンターの本体をこっちに入れるのが難しいとなると……。ワイヤレス印刷はできますか?」 『うちには無線LANがありませんし、直接つなぐにしてもソフトウェアCD-ROMが手元にないので……』 「では、仕方ありませんね。戸を少しだけ開けます。USBケーブルをこちらに差し込んでください。戸を挟んでやり取りをしましょう。廊下にプリンターに使えそうなコンセントはありますか?」 『―――』 「舞衣さん?」 『延長コードがあります。これで動くはずです』 「オーケーです。気が利きますね」 『私の家のことですから』 「それでもいいですよ。頭の回転が早い人は私は好きです。では、ちょっと待っていてください」 『……』  舞衣の返事がなかったが、鷹志田はバリケードにしているソファーなどを少しだけ音がしないようにずらして戸をわずかだけ開けた。  すると、隙間からUSB端末が顔を覗かす。  慎重に引っ張りあげると、慌てて小夜子が運んできたノートパソコンと接続した。  デバイスをインストールして、すぐに印刷画面をだす。  音を立てたくなかったので、お試し印刷機能はカットし、すぐに用意しておいた書類のデータを送信した。  戸の向こう側でレーザープリンターが書類を印刷するかすかな音が聞こえる。  ダイシ様がそれに反応した様子もないので、おそらくは成功したのだろう。 『出ました。放棄相続の申述書とあります。同じものが二セット』 「ダイシ様の様子はどうです?」 『壁を睨んでいるだけでなんの動きも見せません。なんとなく慣れちゃいそうです』 「油断しないでください。大人しくしていても結局はオバケです。危険そのものなんですから」 『―――そうですね。ただ、もう私は慣れてきそうです』 「……はい?」 『人ではないもの。死んでいるもの。であるのは確かですけど……結局は宇留部の女の一人みたいなので』  ―――宇留部の女?  その一言を聞いて、武は心が苛立つのを感じた。  まただ。  また。  宇留部という女に支配された檻の中で、男である俺が見下されてコケにされている。  女になんぞなんの力があるってんだ。  俺の女房もそうだった。  いいところの嬢ちゃんであることをいつまでも忘れずに、お高く止まりやがって。  顔をひっぱたいたくらいでなにがDVだ。  部下の新人OLと寝た程度で浮気だ、不倫だ、騒ぎ立てやがって。  男のやることに一々口を出すな、ビクどもが。  ダイシ様だと?  化け物の分際で勝手しやがって。  所詮気持ちの悪い化け物風情になぜこんな目に合わせられなくちゃならねえんだ。  そうだ。  この家の財産だって計算上は半分以上、俺のもんだ。  それをなんで諦めなくちゃならないってんだ。  ふざけるな!  ……武はすべてに唾を吐きかけたくなった。  ついさっき弁護士の説得に応じたのは間違いだと心の中で翻したのだ。  であるのなら、書類にサインなどするものか。  したら、俺の金がすべてなくなってしまう。  もったいないし、俺の正当な権利なのだ。  そう変心した。  その心変わりがどんな影響を及ぼすのか、彼は気がつかずにいた。 「……下の隙間から書類を差し入れてください。こちらで署名してもらいますから」 『あ、はい。こうですか』  舞衣が指示通りに一枚一枚、下の隙間から差し入れる。  居間側で鷹志田が受け取り、一セットごとにわけて、小夜子に預ける。 「これにサインすればいいんですね」 「とりあえず。ただし、本当に財産放棄をするという気持ちも必要かもしれません。署名という表示上の意思表示だけでなくて、内面の意思表示までも求めている可能性がありますから」 「わかりやすく」 「心の底から財産はいりません、と思わないと祟りの解除ができないかもしれないということですよ」 「―――センセーの言うことは難しいね。法律用語?」  小夜子にも欲はある。  だが、それは時と場合による。  命がかかった状況で欲にとらわれることはさすがにできなかった。  加えて、泣くだけ泣いたことで眼球が涙で冷やされ、冷静になったということもある。  両親や弟が無残に死んだ今となっては、自分の命がなによりも大切なのだ。  命と財産の天秤棒を傾かせるべきはどちらか。  良かれ悪かれ、彼女も宇留部の女であったということだ。  さらさらっと簡単に署名する。  それだけで何億という財産を相続する権利が消え果てた。  いつか後悔するかもしれないが、死なずに済むのならばそれでいい。 「武さんもお願いします」  鷹志田が差し出した書類を、武は呆然と見つめた  そして、乱暴に叩き落とす。  見つめていた二人が仰天するほどの狼藉だった。 「ふざけるな! なんで俺が遺産を諦めなくちゃならないんだ! 億だぞ億! それだけの金があるのに俺だけが損をして舞衣だけが得をするなんて許せるものか!」 「ちょっと兄さん、さっきの話を聞いていなかったの! 死にたいの!」 「もうこの時点で俺には莫大な金が入っているってのに、諦めろってのか! それにこいつの言っていることが正しいとは限らねえ! 舞衣一人を儲けさせるための芝居かもしれねえだろ! いや、小夜子てめえもグルだな……」  武は血走った目で従姉妹を見る。 「俺をよってたかって一文無しにしようとしているんだろう。なんだ、ババアの差金か? 初孫の俺をとことん馬鹿にしたあのクソババアの! やいこらババア、出てきやがれ、死んだってのも嘘なんだろう! てめえはどっかに隠れてニタニタ笑ってんだろう! クソババア、死ねよ!」 「武さん、落ち着いて!」 「触んな、腐れ弁護士! 俺はてめえらが大嫌いっなんだよ。エリートぶりやがって、他人を見下すなボケが!」  元ラグビー部の男が暴れだせば止めることは難しい。  荒事慣れした静磨がいない以上、鷹志田と小夜子では武をとめられなかった。  テーブルの上の小夜子が署名したものを含めて、書類をかろうじて退避させるが、鷹志田は背中から武に殴られて突っ伏した。  気こそ失わなかったが、痛みで頭がくらくらする。  小夜子を庇いたくても鷹志田は動けない。  正気をなくしたのかイスをもって壁を叩き出した武の暴走はもう止められないかと思われたその時―――  バリケードで閉じた戸の隙間から、一本の腕が突き出されてきた。  白い、幾何学的になにか違和感を持たせる不整の腕だった。  力で強引にこじ開けたのだ。  そして、できた隙間からこちらをじっと覗く黒いもの。  飛び出た目が隙間を這いずりこちらににじり寄ってくる。  あるかどうかもわからない視線の先には―――  武がいた。  ダイシ様は宇留部武を見つめていた。  凝視していた。  睨んでいた。  嬲っていた。    死人の。  化け物の。  呪いの。  祟りの。  怨霊の。  悪霊の。  女の。  憎しみが。  籠っていた。  男への恨みがあった。  なぜそこまで男を恨んでいるのか誰にもわからない。  だが、そこには確かに怨があった。  忌まわしい怨が。  ダイシ様の手が伸びた。  まるで、引き伸ばされる餅のように。  ゆっくりと伸びる鋭い繊手の先には……武の首があった。 「クソ武ぃ、てめえ、さっさと署名しやがれ! 死にてえのか、このどチンピラア!」  鷹志田は無様に寝転がりながら、必死に叫んだ。  彼にできることはそれしかない。  武のためにあの白い腕に触りたくはなかったし、そんなことをすれば彼も邪魔者とみなされて殺されてしまうはずだ。  ダイシ様とはそういう化け物なのだ。  だったら、彼にできることは!  一つ! 「金輪際、財産なんかいらねえと心の底から思え! アイツはてめえが宇留部の財産を手に入れようとする度に始末しにかかるぞ! 小夜子をみろ! 狙われてねえじゃないか!」  小夜子は戸のすぐそばにいたが、その彼女をダイシ様は見ようともしていない。  執拗に武だけを凝視している。  それだけで鷹志田の主張には説得力があった。  武はおろおろと首を振るだけで無言。  弁護士は声を張りやすいように仰向けになった。 「早く署名しろ! 疑うな! 死にたくねえだろ! 早くしろおおおお!」  最後の怒鳴り声に反応したのか、武はテーブルに寄り、さっき自分で叩き落とした書類を拾い上げる。  鷹志田が用意しておいたボールペンを掴み、一瞬だけ躊躇ったが、覚悟を決めたのか殴りつけるような力を込めて署名をした。  だが、それでもダイシ様の不気味な腕は止まらない。 「舞衣さん! ダイシ様に言え! この家のものは貴女が継いだって! もう宇留部の財産は自分のものだって!」 『はい!』  鷹志田の指示に従って、舞衣が廊下で何やら懇願しているのが聞こえてきた。  どういう状況にいるのか居間にいる人間にはわからない。  だが、しばらくして、今にも武の首に達しようとしていた腕が縮んでいく。  もとの長さに戻っていく。  そして、戸の隙間からも消えていった。  こちらを見ていた飛び出た瞳もなくなった。  居間に漂っていた妖々とした寒気も霧散していた。  ―――ようやく頭の痛みがなくなり立ち上がった鷹志田は、宇留部家の二人が署名した書類を手にとって、一瞥するとカバンの中のファイルに仕舞いこんだ。  次の彼の仕事はこれを裁判所に提出することだった。  宇留部の財産についてはまた別途で話し合うことになるだろう。  妖異に満ちた時間が終わったと同時に、もう仕事のことを考え出しているところが、いかにも私らしいなと鷹志田は自嘲気味に苦笑する。 「まあ、問題はこれが有効とされるかどうかだけどな」  これが認められなければ、またダイシ様が現れるかもしれないのかと思うと、気が重くなって仕方がなかった……。
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