14人が本棚に入れています
本棚に追加
三女の夫
「おい、これからどうするんだよ」
宇留部家の三女菊美の夫である寅彦が妻に聞いた。
彼は昭島市にある運送会社の倉庫で働いているだけあって、五十二歳になっても体力自慢の小男だった。
逆に、こういった頭をひねらなければならない事態には弱いようだった。
「電話が通じないとなったら、下の大塚さんとこに行って借りるしかないわ。あんた、行ってきてちょうだい」
「おいおい勘弁してくれよ。この暗いのにあんな手すりもない階段を降りろってか。落ちちまうよ。あの傾斜を忘れたのかよ、この家で育ったくせに」
「仕方ないでしょ、携帯もメールも通じないんだから。さっさと役所に届け出して、親戚のおじさんたちに連絡を付けないとお通夜も開けないわ」
「じゃあ、義兄さんや義姉さん、武くんあたりに行かせればいいだろ」
「文句言わないで。あたしだって忙しいんだから」
妻がそろそろ恒例のヒステリーを起こしそうな声色になったので、寅彦は引き下がることにした。
それに実の母を亡くしたばかりの女房を気遣ったということもあるだろう。
彼にとって、義母が死んでもそれほど悲しいとは思わないが、実の娘ならばどんなに仲が悪くてもショックは大きいはずだ。
寅彦にはほとんど思い出のない義母が死んでもどうでもいい。
ただ、この訃報によって女房に億単位の遺産が入ってくることだけは不謹慎にも嬉しかった。
(これで俺もあんなクソ倉庫でフォークリフトに乗らずに済むかな)
朝から晩まで、広い割に荷物を詰め込みまくった結果として狭くなった倉庫で、商品を出し入れする仕事にはもう飽き飽きしていた。
働くことは嫌いではなかったが、倉庫というのは屋外での仕事と変わらないので、夏は暑く冬は寒いのでうんざりしていたである。
このあたりで、女房の金をあてにしてのんびりとするのも悪くないかなとは思っていた。
彼の二人の子供は専門学校生と大学生で、娘の方は声優になりたいと勝手気ままにしているが、もう手はかからない年頃だ。
場合によっては、女房と温かい地方に引越してもいいか。
「じゃあ、まあとりあえずその……大塚さんだっけ? のところに行ってくるわ。誰に電話すればいいんだよ」
「えっと基本的にはおばさんに聞けばわかると思うけど……。あたしもハタチでここをでたから細かいところは知らないのよ。喜世子姉さんだったらわかると思うけど、もう死んじゃっているしね」
「喜世子さんはもう二年も前に亡くなってんだろ。他の誰かに聞いとけよ。おめえといい琴乃さんといい、欲の皮ばかり突っ張って、いろいろと手ぇ抜いてんじゃねえよ」
「うるさいわね! あたしだって、お義兄さんを養子にまでした琴乃姉さんには敵わないの!」
これ以上はまずいと判断したのか、会話を打ち切って寅彦は玄関から外に出た。
奥多摩の二月、さらに夜ともなれば骨が凍るほどに寒い。
セーターを二枚重ね、ジャンバーと毛糸のマフラーで重武装してもまだ冷える。
下ろしたばかりのホッカイロはまだ温かくならなかった。
「んじゃま、行ってくる」
「お願いね。足元には気をつけてよ。真っ暗なんだから」
「オメエが言うな」
空には数多くの星が瞬いていた。
さすがにこのあたりに来ると、多摩で見るよりも星が多い。空気に不純物が少なくて澄んでいるからだろうか。
月明かりも十分にあり、普通に夜道を歩く分には問題はない。
問題は急な勾配を持つ階段だった。
宇留部邸には車の入る表玄関とは九十度違う位置に、崖めいた場所を下る階段がしつらえてある。
この先には唯一の隣家といえる大塚の家があった。
地主の宇留部とは違い、大塚はただの庶民ではあったが、近年になって人付き合いを避けるようになった宇留部においては数少ない知己だ。
困ったときはまず大塚に行くように、孫娘は仕込まれているらしい。
(それにしたって面倒なことだぜ)
寅彦は自分の携帯を覗き込んだ。
「圏外」の表示のままだ。
ネットに繋ごうとしてもエラーが出てしまう。
(ド田舎だしネットも通話もできないのはしょうがねえけどよ……。まさか電話線が切れるとは思わなかったぜ)
義母の突然の死を受けて、まず残された遺族がしようとしたことは、関係各所への連絡であった。
通夜や葬式の準備に取り掛からなければならないからだ。
肉親の死のショックを紛らわすためにも忙しいほうがいいということもある。
だが、宇留部邸に取り付けられた電話機は受話器をとってもウンともスンとも言わなかった。
ずっと、「ツーツー」と音を発し続けるだけなのだ。
誰かが「電話線が切れたんじゃないか」というので、調べてみたら、邸の裏手にある電話線が確かに切れていた。
だらんとぶら下がった電話線をつなげ直すことはできず、家電は使えないという結論に落ち着いた。
だが、莫大な資産を有し、奥多摩の名士でもある宇留部家の当主の死は客観的にも強い影響力があるので家族だけで密葬もできず、朝まで待っている余裕もない。
それに翌日は金曜日だ。
すぐに週末になってしまう。
死去の連絡は早ければ早いほうがいい。
寅彦が大塚家に使いに出されたのはそういう事情による。
彼は知らなかったが、表の玄関からは義母の妹の娘―――つまり姪であり菊美たちのいとこにあたる清美がエブリイで出掛けようとしていた。
電波の届く位置まで車で行こうとしていたのだ。
そんなことを知る由もなく、彼は律儀に女房に言われたままに夜道を歩いた。
(やっぱり寒いな)
空気が冷え切っているせいか、脇の下などの汗をかく部分が異常なほどに寒い。
まるで傍で冷蔵庫の扉が開いているかのように。
加えて自分のあとを誰かがつけてきているような変な感じがするのも嫌だった。
家族なら声をかけてくるだろうから、動物が寄って来ているのだろうか。
そういえばもう少しいったあたりでは、夜になると鹿が目撃できたりする。
野生動物がうろちょろしているというのはさすがド田舎だ。
この時、寅彦の心理としてはどうしても認めたくないものがあったのだが、残念なことに彼は気がつかない。
たとえ、気づいていたとしてもどうにもならなかったとはいっても、
宇留部邸の灯りが小さくなったところで、例の階段に辿りついた。
山道によくあるタイプの急な斜面に、材木と金属でこしらえた粗末な段がついているだけの安全性は低いものだった。
下を見ると、百メートルはある。
これを使わないと大塚の家まではたどり着けない。
(手すりがないんだよな。マジでやべえぜ、こいつ)
おそるおそる一歩を踏み出す。
強度を足の裏で確認する。
少し湿っているが滑るというほどではない。
慎重に進めば問題はないだろう。
寅彦は階段を下りだした。
「しかし、まあ、これでうちも金持ちか」
さっき女房のことを欲の皮が突っ張っているといったが、寅彦自身も転がり込んでくる大金にはワクワクしていた。
なんといっても億単位だ。
一週間近く泊まり込みをする羽目になって、有給を使いまくっても十分に元が取れる額だった。
そもそも、親族がこんなに集まって長々ともめる羽目になったのは、義母が全財産を孫娘の舞衣に継がせたいといいだしたからだ。
舞衣も困惑していたが、他の親族はもっと混乱した。
いきなりの爆弾発言だったからだ。
そのために弁護士まで呼んだという。
しかし、今の日本の民法では一人の相続人への全部の譲渡は認められていない。
義母の無理は通るはずがない。
だが、亡くなる寸前に義母は呼び出した弁護士の若造と何やら密談をしていたらしい。
それは集まった親族に疑いを向けさせるのに十分なものだった。
だから、依頼人が死んだというのに、客間の弁護士は遺族に無視されたまま取り残されている。
彼の子供たちと違い、手元で育てた孫娘が可愛いのはわかるが、義母の態度には老人の妄執のようなものが感じられて寅彦は気持ち悪いぐらいだった。
どうしてあれほどまでに我を通そうとするのか。
『あんたたちの話なんて聞かないよ! 私の言うとおりにしなさい!』
『どうなっても知らないからね!』
『いいから言うことを聞きなさい!』
どれも頭ごなしに怒鳴りつければいいという説得の仕方だった。
もともと品のいい婆あだと思っていたのに幻滅したというのが正確な感想だった。
「お祖母ちゃん、痴呆なんじゃね」と息子が言うのもわかる気がした。
義母のここしばらくの振る舞いは狂ったようだったから。
(死んでくれて助かったかもな。あれ以上はもう見たくなかったし)
人間としてはどうかと思うが、それが寅彦の本音だ。
もっとも二人の娘と一人の養子はそれでは済まなかったようだった。
青筋立ててものすごい剣幕でがなりたてる義理の姉と女房の姿は醜いものだった。高校の社会科教師をしているという義理の兄も大概だったが。
教育者とは思えないほどの罵詈雑言を義母だけでなく舞衣にまで吐き散らかして、寅彦一家にドン引きされていたほどである。
その時、何かが聞こえた。
ニワトリが首を絞められている奇声のような……。
やがてその奇声は人の言葉として聞き取りやすくなっていく。
嗄れた耳障りな人の声。
寅彦の傍らの茂みが、がさがさと不気味に揺れていた。ずん、ずしん、と何やら重い衝撃のようなものがスニーカーの裏を通じて伝わってくる。
さっさと逃げるべきだという理性の働きをなぜか無視して、寅彦は茂みに近寄った。
躊躇いつつ、中の様子を窺ってみた。
そこに野生動物でもいればちょっとしたビックリで済んだ出来事のはずだった。
しかし、何もなかった。
ぽっかりと黒い空間が空いているだけ。
懐中電灯もないので詳しくはわからないが、少なくとも彼の聴きとった声を発するものはいなかった。
(空耳かよ。良かったぜ)
安堵の吐息を発したのも束の間、反対側、彼が背を向けた方向から今度は聞こえてきた。
はぁはぁという荒い呼吸の音が。
間違いなくそこに何か―――もしくは誰かがいる。
どのくらいのあいだ寅彦は恐怖に立ち竦んでいたのだろう。実際には数秒といったところだったはずだ。それでも寅彦の主観では一時間近い時の経過が感じられた。
埒があかないと思ったのかそれともやけくそだったのか、意を決して寅彦は勢いよく振り向く。
だが、そこには何もいない。
むしろそれが当たり前。
いるはずがない。
今度こそ確実に安堵していると……ずしん。
不意に重量のあるものが落下した音がまたも足裏に伝わってくる。続けて、くぐもった呻き声。
な……なんだよ、何が起こっているんだよ。
急な斜面に設えられた階段の途中で、一体何が起きているかわからず、寅彦は周囲を見わたす。
当然のこと、なにもいない。
目眩がした。とても現実のできごととは思えない。悪夢の一シーンのようだ。
全身に金縛りがかかったように身動きが取れなかった。
そうだ。さっさと下に降りて大塚さんに助けを求めよう。きっとなんとかなる。
楽観的な解決策を考え出して、その通りに動こうとした寅彦だった。
どういう訳か、引き返して家族のもとに帰ろうとは思わなかった。
そのほうが近いはずなのに。
そして、その考えの選択ミスがおそらく致命的な失敗だった。
階段をさらに降りようと寅彦が足を伸ばしたとき―――
背中がぽんと押された。
あとは奈落の底に真っ逆さま。
古賀寅彦の人生はそこでおしまい。
最初のコメントを投稿しよう!