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三姉妹の従姉妹
三女の旦那が隣家まで電話を借りに行ったあと、しばらくしてから姉妹の従姉妹にあたる宇留部清美が提案した。
「私、駅の方の友達のところに行ってみる」
「どうして?」
「茂庭先生を連れてくるわ。早く伯母ちゃんの死亡確認をしないとお通夜もできないでしょ」
分家にあたる清美は、本家のここよりも青梅に近い場所に住んでいたが、事情はそれなりにわかっている。
かかりつけ医である茂庭医師との面識もある。
もう夜も更けていたが無理を言えば出張してもらえるかもしれないという計算だった。
外部と連絡がつかないという事情から苛立っていた親族は、少し考えた挙句、その提案を了承した。
清美は、刀自の妹の子供であり、本家のゴタゴタそのものには関わりが少ない。
遺産分配ともほとんど関係はない。
単に親族としてやってきているだけだった。
ネットが繋がらないせいで、スマホの内蔵アプリで暇つぶしをしていた清美の息子である静磨が言った。
「車使うの。だったら、俺が行こっか?」
「いいわよ、あんたは何もしなくて。大人しくしてて」
「へーい。役立たずは黙ってマース」
やさぐれた口調で静磨はそっぽを向いた。
二十七歳になっても正社員になれず、日雇いの派遣社員を続けている彼にとっては、高学歴の従兄弟や才媛そのものの従姉妹ばかりの環境は居心地のいいものではなかった。
息抜きに外に出ようかと思っただけなのだ。
だが、頭ごなしに否定されれば反発心も沸く。
彼は自分の母親のことが嫌いなのでさらにだ。
珍しく親孝行的な振る舞いをしたのにという意識もある。
「じゃあ、清美ちゃん、頼むね。茂庭先生、お母さんの具合が悪いのは承知していて準備はしてくれているはずだから」
「日野のおじさんたちにも連絡したほうがいい?」
「そっちは寅彦さんが連絡網を回してくれているはずだから、おいおい伝わるでしょ。あ、NTTの方に電話回線の修理をお願いしといて。忘れてたわ」
「開いているかしら」
「非常回線みたいなものがあると思うわ。あ、あなた、エブリイのキーを貸してあげて」
「……寅彦くんのプリウスでいいじゃないか」
「寅彦さん、出かけちゃったからわからないのよ」
幸吉はしぶしぶ頷いた。
高校の教師をしている彼は、倉庫業をしている義理の弟がわりと値の高いプリウスを乗り回し、自分がお手軽なライトバンしか乗れないということに劣等感があるのだ。
都立高校の教員であり、給料はそれなりにもらっているのだが、もともと金遣いが荒いのに加え、いくばかの借金があるせいでそうなっていた。
自分のせいだというのに、他人の責任に転嫁する癖のある彼らしい発想だった。
「部屋の方に置いてある。清美さん、悪いけどちょっとついてきて」
立ち上がるとさっさと自分たちの部屋の方に向かう。
大人しく付いていく清美。
二人が部屋を出て、薄暗い廊下を行き、途中で角を曲がると、後ろを行く清美の服を掴んで引き寄せた。
それから、唇を吸う。
予想していたらしい清美もそれに夢中になって答え、二人はしばらく熱い口づけを交わした。
「うぐ、うぐっ」
幸吉は妻である琴乃とは、すでに二十年近くキスなどしていない。
長年の浮気相手である清美とだけだ。
たまにしか会わない分、新鮮であるし、もうすぐ五十になるというのにいつまでも若々しい彼女はまだ四十代前半に見えなくもないから、性の対象としても十分に見える。
対して清美も、夫と離婚してから十年以上男っけがなかったこともあり、従姉妹の夫であるにもかかわらず不倫関係に溺れていた。
今回のことも、実際には幸吉との関係を楽しみたいという目論見があったのだ。
ともにアラフィフであるにもかかわらず旺盛な二人であった。
「やめてよ。奥さんに気づかれるじゃない」
「気がつきゃしねえよ。お義母さんが死んじまったからそっちで手一杯だ」
「もう酷い男ね」
「うるせえよ」
不自然にならない程度の時間、二人はいちゃつき合うと、幸吉は本当はポケットの中にいれたままのキーを手渡す。
「もう少し一緒にいたかったぜ」
「セックスまで行ければねー」
「それは無理だな。いくら広い屋敷でもしけこめばバレる。俺は離婚したくないし、養子を離縁されたくない」
「もう伯母さんもいないから離縁はないわよ」
「万が一さ。ちょっと財布が苦しいんでな。遺産、あてにさせてもらう」
幸吉に借金があるのは実はこの清美との関係にもあるのだが、そこを反省するほど殊勝な男ではなかった。
「んじゃ、気をつけろよ。エブリイ、馬力がないからあまり飛ばすな」
「はいはい、わかったわよ」
胸元の乱れを適当に直して、口元のよだれのあとを拭くと、清美は玄関に向けて歩き出した。
その後ろ姿を幸吉はほとんど見ないで、居間に戻る。
怪しまれたくないからだ。
清美はさっさと玄関を抜けて階段を降り、駐車場に入った。
車は三台ある。
幸吉のエブリイ、寅彦のプリウス、そして舞衣のインプレッサだ。もっとも、舞衣の車は一昨日から調子が悪く、まともにエンジンがかからなくなっていたので使い物にはならなかった。
奥多摩の山の中で車が使えないというのは致命的なのだが、他にやることが山積みだったせいで舞衣はJAFを呼ぶことも忘れていたのだ。
おかげで弁護士を迎えに行くのに、今の清美同様にエブリイを借りることになってしまう。
駐車場は砂利が敷いているだけで、足元も月明かりでしかわからない程度の、はっきりいってただの空き地だった。
宇留部邸への来客以外、誰も使うことはない。
音を立てて砂利を踏みしめながら、清美は車に辿り着き、鍵を開けて乗り込む。
中はだいぶ寒い。
すぐにエンジンをかけて、エアコンを全開にする。
一秒でも早く温かくなってもらわないと寒さで死んでしまうかもしれない。
手袋をつけた両手を擦り合わせて暖をとるが、まったく温かくはならない。
「失敗したわ。言わなきゃよかった」
今更後悔しても遅い。
彼女としてはちょっとした親切心といい格好をしたいというだけの見栄での行動であった。
静磨同様に外の空気を吸いたかったというのもある。
あと、できることなら愛人と共に出かけたかったのだが、それはさすがに不可能だろう。
バレてはいないとはいえ、いつサレている側が気づくかわからない。
琴乃の幸吉への愛情が枯渇していることはわかっていたが、パートナーの裏切りが発覚すればあの気の強い従姉妹がどんな反応をおこすかはわからない。
見たいような見たくないような、二律背反の感情がある。
幸吉その人については、惚れているといっていい。
古い言葉でなら「お熱になっている」。
年齢は五十歳半ばのはずだが、整髪剤で綺麗になでつけた艶のある短髪と、鋭い目鼻立ちをしていて、昭和の中期のスターのようだった。
わかりやすくいえば、ナイスミドル。
高校の女子生徒よりは大学生などにはそれなりに人気があるだろうなというのが清美の素直な感想だ。
もっとも性格については強引で思い通りにならないと癇癪を起こしやすいという欠点があるのだが、そこについては目をつむっている。
愛人向けではあっても、伴侶向けではないタイプだ。
清美としては借金持ちなのがマイナスだ。
だから、顔と職業に似つかわしくないライトバンに乗る羽目になっているのだから。
「ま、借金なんかは琴乃従姉さんが払えばいいか。今更、金で苦労したくないし」
しばらくして車内が温まり、そろそろハンドルを握っても冷たくなくなったと見て、清美はシートベルトをつけた。
すると、突然、後部座席のドアが開いて、直ぐに閉まる。
暗いせいか中々嵌らないシートベルトに熱中していた清美は、息子の静磨あたりが後を追ってきたのだろうと考えた。
「誰ぇ、一緒に来る気?」
返事はない。
ようやくシートベルトを締めると、バックミラー越しに後部を見る。
不思議なことに誰もいなかった。
少なくともミラーには映っていない。
「あれ、もしかしてドアが壊れた?」
上半身をひねって後ろを見てみる。
やはり誰もいない。
ただし、少しだけ空気がひんやりしていた。
ドアが開いたことで冷えた外の空気が混ざりこんでしまったからだろう。
「おかしいなあ」
ブツブツ言いながら、清美はハンドブレーキを外した。
そろそろ出発しなければならない。
ふと、もう一度だけバックミラーを覗いてみた。
本当にただの気まぐれだった。
だが、そのせいで彼女は信じられないものを見てしまう。
後部座席に女が一人座っていた。
黒い髪をひっつめて後ろで束ねているせいで、一瞬だけ舞衣かとも思ったのだが、あの従姪はいかにもシニョンという髪型だったのに、この女はすべてを無理矢理に集めている感じだった。
そうすると眼がややツリ目がちになるものなのだが、その女に限っては違っていた。
いや、正確に言うのならばその女には眼がなかった。
瞳のある位置に窪みがなく、盛り上がった黒い塊のようなものが張り付いている。
まるで眼球が半分以上外に迫り出しているかのごとく。
さらにだらしなく開いた口元には赤い舌がひりだしていた。その赤みだけが異常に目に付いた。白いスープに浮いた血の一滴のように。
その舌がズルリと動いた。
舌なめずりだったのかもしれない。
少なくとも真っ白になりそうな思考の中で清美はそう感じた。
「あ……あ……あんた……誰よ」
知らない女。
名前もわからない女。
でも……どうして……見覚えがあるの!
清美は叫んだ。
だが、バックミラー越しに見える女は消えることはない。
ドアを開けて逃げ出そうとしたが、ロックが外れず、すぐに開かない。
それどころか身体を動かそうとしたらシートベルトに邪魔をされて、まともに向きすら変えられなかった。
二三度バタバタとしていたら、助手席と運転席の間に女はのっそりと顔を寄せてきた。
ふう、と左耳の裏に生暖かい風があたる。
女の吐息だ。
「うわあああああ、ぁぁぁぁ、いやあああああ!」
喚けば喚くほど、シートベルトは外れず、ますます体に食い込んでくる。
そして、うやむやにでもするかのように両手を振って女を遠ざけようとしたとき、―――ガタン。運転席のシートが後方に倒れていった。
リクライニングが作動したのだ。
清美は手元のレバーには触れていない。
だったら、なぜ? 答えは簡単。
女が倒したに違いない。
そして、清美は背後の女を見上げる形になった。
上下逆の体勢のまま、こちらを見る瞳の飛び出した女を。
「いやああああああああぁぁぁぁぁ!」
首の周りに冷たいものが巻き付いた。
彼女にはわからない。
それはきっと女の腕だった。
もう清美は指一本動かせなかった。
あまりの恐怖に麻痺したのだ。
舌先でさえ打ち震えて感覚がない。
歯がカチカチと音を鳴らす。
瞳の飛び出た女が覆いかぶさってきた。
清美の上に。
冷たい肌をしていると思ったのもつかの間、鎖骨のあたりに信じられない痛みが走った。
(噛まれている! 噛まれているのよお!)
なにもわからないのに、真実を清美は察した。
彼女は明らかに噛まれている。
いや、違う。
(食べられているの! 私は―――食べられているの!!)
熱い何かが胸元を流れ落ちる。
雫と滴り。
それは血だ。
夥しい血が流れ落ちようとしていた。
「やめて! やめてぇぇ!」
必死に叫ぶ清美の声は誰にも届かない。
絶対、誰にも。
彼女は世界に見捨てられたのだ。
宇留部清美の人生はここでおーわり。
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