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「何があったのか覚えていないオレにとって、その人は朝目が覚めたら隣に寝ていただけの人です。しかも直ぐに逃げたのでろくに顔も見ていません。なのにそのたった一瞬で、オレはあの人を・・・」
好きになった。
「でもオレは逃げた。その人から・・・その事実から逃げたんです。オレの中でなかったことにしようとしました。でもいくら忘れようとしても心からその人は消えず、オレは妊娠した」
だけど妊娠したことは嬉しかった。決してそれは、オレにとっては失敗じゃなかったんだ。
「妊娠が分かって、一瞬相手の人を探そうかとも思いましたが、アルファにしたらワンナイトのオメガから妊娠したなんて言われたら、ハニートラップを仕掛けられたと思うかもしれない。そう思われて蔑まれたら、きっとオレは立ち直れないくらい打ちのめされてしまう。そしてそれはきっと、お腹の子にも良くない。だったらこのまま、オレ一人で育てようと思いました」
オレ一人でだって十分に育てられる。
「でもオレの中のその人への思いは消えなくて、でも一人で育てると決めたから今度こそ忘れようと思いました」
箱にしまって心の奥底に沈めた。
「だけどまだ忘れられないその思いがオレの中にあります。その思いがここにある以上、要さんの思いを受け取ることは出来ないんです」
オレは自分の胸に手を当ててぎゅっと握った。
「だからもう、要さんとお会いできません。連絡先も消します。だから要さんも、オレの連絡先を消してください」
そしてオレは『ごめんなさい』と頭を下げた。
なのにその頭上から要さんのきっぱりとした声がした。
「嫌です」
その声にオレが顔を上げると、要さんがこれ見よがしにため息をつく。
「意味がわかりません」
「え?」
「なぜ会えないのですか?なぜ連絡先を消さなければならないのですか?」
眉間にしわを寄せ、要さんは不機嫌そうに言った。
「だからそれは・・・」
いま言ったことをもう一度言おうと思ったオレを、要さんは遮った。
「千歳さんは昨日ちゃんと言ってましたよ。僕の気持ちに応える自信はない、でもお友達からなら付き合ってもいいと。だから僕達は友達なんです。こうして会ってごはんを食べることも連絡先を交換していることも、友達だったら当然のことです」
そしてひとつ息を吐くと、オレの目をじっと見る。
「僕は昨日告白して振られています。あなたはちゃんと僕を振ったんです。でも、だからといって、僕はあなたを諦めなければいけないということではない。この思いは僕のもので、いつ諦めるかは僕が自分で決めることです。そして僕はまだ諦めません」
そう言うと、要さんはふっと笑った。
「一度諦めなければならないと思ったこの思いが、実はそうでないと分かったんです。もう少し、あなたの事を思わせてください。そして、僕にあなたを振り向かせるチャンスをください」
それは昨日も言っていた事だ。でもオレはそう思われることすら、オレには資格がないと思っていた。でも、要さんの言う通りだ。その思いは要さんのものであって、オレがとやかく言えることじゃない。
「昨日も言いましたが、千歳さんの嫌なことはしたくありません。もしこうして会うことが嫌であるなら、僕はもうあなたに会いません。でも離れていても、僕はあなたの事は思い続けます。いつかあなたが、僕の思いに応えてくれるようになるまで」
その顔は優しく微笑んでいたけど、どこか悲しげで儚い。だからオレの胸はつきんと痛んだ。
「いいえ。要さんと会うことは嫌じゃありません。ただオレは要さんの思いに応えられないし、違う人を思って・・・」
「だから友達としてですよ。僕は千歳さんの友達にもなれませんか?それほど僕のことが嫌ですか?」
オレの言葉を遮りそう言う要さんに、オレの心はさらに痛む。
「・・・違います」
ただ要さんの優しさを、オレなんかが受け取ってはいけないと思ってしまったんだ。決してオレが要さんを嫌いなわけではない。
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