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オレはドアの方を見た。するとそのドアが開き、その隙間からアルファの香りが流れ込んでくる。
よく知る百瀬の香りと、それに混ざった別の香り。それは下で会ったアルファのだろうか。けれどそれを確認する間もなくその香りを嗅いだ瞬間、オレはまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
ドアはまだ開ききらず、百瀬の姿すら見えない。だけどその香りでオレの身体は震え、涙が溢れてくる。
あの人だ。
つい今しがたまで思っていた事などすっかり忘れ、オレの心の全てがこの香りの主を求め始める。
頭よりも先に身体が動いた。
オレは横たわっていた身体を起こし、ベッドから降りようとする。けれどオレの足が敷かれた絨毯につくよりも早く、オレは誰かに強く抱きしめられた。
それはほんの一瞬の出来事だった。
ドアの隙間から香りを感じたと思ったら、オレはその香りに全身を包まれたのだ。
どくどくと早鐘を打つ心臓は誰のものだろう。
身の内から聞こえる心臓の音の他に、耳が押し当てられたその人の胸からも、オレと同じくらい早い鼓動が聞こえる。
「・・・けた」
直接耳に響くその呟きは、高鳴る鼓動にかき消される。けれど次第に大きくなるその声に、オレの心は鷲掴みにされる。
初めて耳にするのに、オレの心は高ぶり身体が震える。
「・・・けた・・・つけた・・・見つけた」
何度も繰り返される呟き。そしてそれと同時にオレを抱きしめる力も強くなっていく。
「離さない・・・逃がさない・・・もう絶対に・・・見失わない」
ぎゅっと込められる力。
そんなに強く抱きしめられたら苦しいはずなのに、オレはその濃ゆい香りに包まれ、直に感じる体温に陶酔している。
ずっと求めていた香りがオレを包み、あんなに焦がれた人がオレを抱きしめている。
それはなんて甘美なことなのか。
そのあまりにも幸せな状況に、オレは動くことも忘れて身を委ねていたけれど、不意にオレを捉えていた腕がオレから離れてしまう。と同時に百瀬の声が聞こえる。
「待って、離れて。一旦落ち着きましょう。ね?」
焦ったようなその声にいつの間にか閉じていた目を開けると、百瀬がその人をオレから引き離そうと後ろから羽交い締めにしていた。
「そんなに力一杯抱き締めたら、お腹の赤ちゃんが潰れちゃうから・・・」
後ろから引っ張る百瀬に抵抗していたその人は、百瀬のその言葉にはっとしたようにオレから身体を離し、いま初めて気づいたようにオレのお腹を見た。
見開かれた目と、小刻みに震える唇。
オレが起きているその人を見たのは、これが初めてだった。
あの時も全体的に色素が薄い人だとは思ったけど、目も茶色いんだ。
色白の肌に茶色くてふわふわな髪。そして、目もキレイな茶色だ。その目が大きく見開かれ、信じられないものを見るようにオレのお腹を凝視している。そして震える口元を手で覆い、呟かれる言葉。
「・・・ごめんなさい」
その言葉は、大きなお腹なのに強く抱き締めて『ごめんなさい』じゃない。
先程までの高揚感が、すっと冷めて行くのを感じる。
やっぱり子供は、望まれていなかった。
当然だ。
普通に考えたら、たった1回しか会っていない相手との子など望まない。だってまだ相手のことを知らないし、本当にその人を好きになるのかも分からないのだから。初対面で意気投合したとしても、相手を知るうちに自分とは合わないと感じるかもしない。なのに、そんな不確定な相手との子を生むなんて、普通は考えないだろう。堕ろして当然だ。
胸がぎゅっと締め付けられる。
オレにとって、神様からの贈り物だと思うほど嬉しくて大切な存在を否定されたのだ。なのに・・・なのに、オレの心はその相手のことを切り捨てる事が出来ない。
子供を否定されてもなお、オレの心はその人を求め、抱きしめられたいと願ってしまう。
ともすれば抱きついてしまいそうになるのをぐっと堪え、オレは唇を噛んだ。
とその時、その人がいきなり膝をつき正座をすると絨毯に手をついた。
「ごめんなさい」
手をついて下を向くと、それはまるで土下座のようだ。
「ごめんなさい」
その人は俯いたまま謝罪の言葉を繰り返す。
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