2 銀翼の捕食者

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2 銀翼の捕食者

 ……味覚障害、か。  心中でそう呟きながら、四條青葉は四時限終了のチャイムを聞いた。  今日も屋上だろうかと天井を見上げつつ、教卓の向こう側に立つ生徒たちに一礼をする。  担当教科は英語だが、今はまだ指導教諭に付いて各教室を回り、教え方を学んでいる身の上だ。生徒からは教育実習生と大差なく見えているのだろうと思うと、軽く笑えた。 「私は英語科準備室に寄っていくので、四條先生は先に職員室へ戻ってお昼休みに入っていいですよ」 「……はい。失礼いたします」  祖父と孫ほども歳の離れた男性教諭に穏やかに告げられ、青葉は小さく会釈を返す。  年長者からの先生呼びには未だに慣れず、複雑な気分で職員室の机から財布を取り出すと、売店でゼリー飲料と水をふたつずつ買って屋上に続く階段へと足を向けた。  いるだろうか、と先日そこで言葉を交わした男を思い出す。精悍な顔立ちをした、黒髪に長身の現国教諭。食べ物の味を一切感じないと言って、チョコレート味の栄養補助食品に噎せていた。 「あ。青葉ちゃんだっ」  背後から飛んできた声に不意を突かれたのは、階段手前の角を曲がろうとしたときだ。  聞こえぬふりをして執拗に追ってこられるよりはと渋々振り向いた視線の先に、つい先ほどまで青葉自身もいた三年A組の雪下弘樹(ゆきしたひろき)が立っている。 「昼、教室で一緒に食べねぇ?」 「あ、いえ、僕は」 「いーじゃん。青葉ちゃんイケメンだから来たら女子も喜ぶし、真ん中に青葉ちゃんがいたら男子も女子と交流できるし」 「放して、ください」  手首を掴まれ全身に悪寒が駆け巡ったが、乱暴に振り払ってしまえず、青葉は惑った。  名門私学といえども全校生徒がひとり残らず品行方正であろうはずもなく、着崩した制服で勘違いした格好良さを主張している雪下は、青葉が最も苦手とするタイプの生徒だった。 「青葉ちゃんではない。四條先生だ」 「!」  突如、何の前触れもなく青葉の頭上から声が降り、雪下の無遠慮な指が取り払われた。途端に表情を険しくした雪下の視線を難なく跳ね返す強い瞳の持ち主は、青葉が直前まで考えていた長身黒髪の男本人だ。 「……賀茂川先生」  知らず、安堵の息が落ちた。  行け、と視線で促され、青葉はふたりの横をすり抜ける。いつの間にか周囲には人垣ができており、自分たちが衆人環視の状態になっていたと初めて知った青葉の歩調が羞恥に速まる。一段飛ばしで階段を駆け上がった上履き代わりのスニーカーが屋上へ続く扉の前で、きゅ、と音を立てて止まった。 「はぁ」  冷えたドアノブに指を絡めて扉を押し開けると先日と変わらぬ空の青さに全身の力が抜け落ち、膝が折れた。 「あの手の強引な男子は苦手か、四條」 「ひぁっ」  のそりと屋上へ出て、青葉が閉め忘れた扉を閉ざしたのは迅だ。抜けていません、と返した情けない声をわざと聞き流し、長い足が青葉の隣で胡坐をかいた。 「苦手というか、怖いです」 「小学校教師になればよかっただろ」 「……子どもも苦手です」  おどおどと呟く青葉の横で、迅は小さく笑ったらしい。あたたかな空気がふたりの間を流れた感覚がして、青葉は深く息を吸った。  それほど親しくはないはずなのに居心地のよさを感じてしまうのは、職場では数少ない同世代に対する親近感のせいかもしれない。 「食わないのか」 「ひとつ、あげます」  迅の指に売店の袋を指され、青葉はゼリー飲料の片方を取り出した。  食欲がなくても、昼休みにしか食事はできない。多少なりとも胃に何かを入れておかねば午後の職務に支障が出ることも判っている以上、食べられるものを選ぶしかない。その結果こんな品になった、と長い言い訳を言うべきか否かと迷い、結局青葉は口を噤んだ。 「味を感じない奴の隣では食いづらいか」 「そ、んなことは、ない、ですけど」  一瞬、ぎくりと心臓が震えたのは、胸中を見抜かれた気がしたからだ。  何を食しても美味しくない、楽しくないであろう迅のそばで自分だけが味を感じ、堪能することには抵抗を感じる。最早、仕事によるストレスで食べられないのか、彼への遠慮で食べられないのか、境界は曖昧になってしまっていた。 「気遣いは無用だ。もう慣れた」  気安く言い、それを証明するかのようにゼリー飲料のキャップを外して迅が吸い口をぱくりと銜える。ゼリーを吸引する頬と唇の艶めかしい動き、ごくりと音を立てそうに上下する咽喉に、青葉は覚えず唾を飲み込んだ。  迅の、意志の強そうな吊り気味の双眸、がっしりとした肩、広い背中、長い手足と大きな掌、高身長。教師として生徒に毅然と向かってゆく姿勢。何もかもが貧相な己と違い、青葉の目には眩しく映って仕方がない。眼前にいるのは、こうなりたかったと憧れて止まぬ、理想の男だった。 「そんなことに……」  慣れないでほしいと言いかけた声は、後半が掠れた。美しい男から聞かされる自虐的な言葉に酷い悲しみを感じた青葉の目が、知らぬ間に膝先のコンクリートへと落ちる。灰色に視野を埋め尽くされ、青空の下にいることさえ暫し忘れて青葉は両の拳を握り締めた。爪の食い込む掌の痛みなど、迅の懊悩に比べたら些細なものとしか思えない。  味覚の喪失に至った経緯を聞いていないと気づいても訊ねることは難しく、そうすることによって迅を更に傷つけると思うと袋小路に追い込まれたような気分になった。 「……條、四條」 「!」  何度目かの呼びかけに気がついて、青葉はハッと顔を上げた。否、上げさせられたと認識したときにはもう、青葉の顎を持ち上げた迅の指は肌から離れていこうとしていた。 「俺の問題であんたが落ち込んでどうする」 「それはそうです、けど」 「いいから食え。いや、飲め?」  未開封のゼリー飲料を青葉の眼前に押しつけて、迅が命じる。僕が買ったものですが、と内心で呟いて受け取り、青葉は仕方がなくキャップを回した。 「美味いか」  短く問われ、首を傾げる。舌先にうっすらと触れるのは、柑橘系の風味だ。決して強くは主張してこないが、無味というほど薄くもない。己の正常な味覚を有り難く思う反面、迅の前では申し訳なさも感じてしまう。 「……いまいち、ですね」 「ははっ。この手のものは、大概そうだ」 「判ったんですかっ」  そうだ、と言い切られ、青葉は驚いた。  何かのはずみで味覚を取り戻せはしないのだろうかと、迅の味覚障害を知ってから何度か考えた。激甘、激辛といったひとつの性質に特化した料理、或いは普段は口にしない食品、そこに含まれる何らかの成分が引き金となり、彼の舌に味を伝えはしないか、と。 「あー……」  期待を込め、前のめりに問うた青葉に、しかし、迅は視線を泳がせただけだった。 「味覚を失ったのは中学卒業後まもなくだ。それ以前に食べた味は憶えている」  これも、と中身の減ったパッケージを爪の先で弾く迅の苦笑が切ない。何も言い返せずにいると、長い指に頬を抓られた。 「今、俺にビミョーな味のものを食べさせて悪かったと思っただろ」 「え、べ、別に、思っていませんよ」 「ははっ、図星」  巧い言葉を返せずに口ごもると、迅が軽やかな笑声を響かせた。屈託のないそれに、青葉もかすかな笑顔を作る。 「せっかく綺麗な顔をしているんだ。あんたは笑っていた方がいい」 「え」  不意に目元に影が落ちたと思惟した瞬間には既に、青葉の頭に迅の右手が載っていた。  ばくっ、と心臓が高鳴って、顔が熱くなるのが判った。 「そういうの、女性に言うものでしょうっ」 「今のご時世、女にそんなことを言ったら即刻セクハラで訴えられる。知らないのか」 「知りません。……ぁれ?」  嘘とも真実とも知れぬ情報に首を振り、乱れた気持ちを鎮めようとペットボトルに手を伸ばした青葉の目が、ふと違和を捉えた。 左の掌に小さく赤い傷がひとつ、ある。  迅の自虐発言が辛くて指を握り締めたとき、切り忘れていた爪が食い込んだのだろうと思い至った。平素はぼんやりとしている自分だが、迅といると感情の揺れが激しくなるのだと、僅かに滲む血に教えられた気がした。 「どうした」 「あ、いえ。何でも」  ないです、と続くはずの声を、青葉は発することができなかった。 「……血」 「賀茂川先生?」  いつまでも掌から顔を上げぬ青葉を訝り、問いかけたのであろう迅。だが、その様子は直前までの彼とは全く違った。  青葉の小さな傷を凝視する双眸は限界まで見開かれ、口中から現れた舌が、自身の唇を妖しく辿り出す。獲物を狩る肉食獣の爪のような指が一瞬で青葉の細い手首を掴んで、強い力で身体ごと引き寄せた。 「っ」  乱暴な舌先に傷を舐められた刹那、ぴり、と走った痛みに青葉の身は竦んだ。 「……甘い……」 「え」 「ケー……キ……俺、の……」 「な、に……」  甘い、と。  ケーキ、と迅は言っただろうか。  己の聴覚を暫し疑って、青葉も瞠目する。  味に関する感想は、迅が決して口にすることのないものだ。尋常ではない何かが起こったのだと瞬時に覚り、自分を抱き竦めている屈強な胸を、捕らえられていない右手で突き飛ばした。  ど、と音を立てて迅が背後に倒れる。  衝撃と痛みで正気を取り戻したのか、直前の事態を理解したのか、一度だけ眉を寄せると緩慢な動作で胡坐をかいた姿勢に戻って、四條、と低く青葉を呼んだ。 「……今の、何です、賀茂川先生。ご自分が何を仰ったか憶えていますか」  甘い。  ケーキ。  この場にないもの、感じないはずの味。  男ふたりで水とゼリー飲料だけを持ち込んだ、味気ない昼食の場だ。が、青葉は迅がそう囁くのを確かに聞いてしまっていた。 「……あぁ」  何から話せばよいのかと逡巡するように後頭部をかいて、迅が深々と息を吸う。 「この世にはフォークとケーキと呼ばれる者とそれ以外の人間がいる……と、聞いたことはないか」  ないよな、と、力無く言って俯いた迅の黒い髪が、彼を守るようにその顔を隠した。  ある日突然当事者となってしまった迅に突きつけられた、不本意な事実。  迅と出逢わなければ、青葉が一生涯知らずにいられたかもしれない真実。  両者に覚悟を促すかのように、灰色のコンクリートの上を冷風が渡った。 「十五歳の春のことだ」  ハンバーグとサラダ、パンとスープ。  母親の手によって丁寧に仕上げられた夕食を脳裏に返しながら、迅は語り始めた。  好物のデミグラスソースは暖かなリビングの照明を艶やかに跳ね返し、ちぎったパンは柔らかさを迅の指先へ伝えた。が、口中へ含んだそれらにはなぜか僅かな香りも味もなく、噛むことも飲み込むことも不快極まりない奇妙な物体へと変化していた。  ――賀茂川迅さんは、フォークであることが判明いたしました。  否、変化したのは迅自身だった。  「いくつもの病院、検査。だが、結果はいつも同じ。医師たちは口を揃えて、俺をフォークだと言った」  最後に迅を診た医師は右手で眼鏡を押し上げ、書類に目を落としたまま淡々と語った。  ――フォークはケーキを捕食する者です。ケーキは血肉は勿論、体液までもが甘味に満ちて、唯一、フォークに味を感じさせてくれる存在です。  ――物理的に、と言うのは抵抗があるでしょう。味を欲するのならば、性行為だけでも構いません。  酷い眩暈がして椅子から滑り落ちそうになり、迅は長机の縁を両手で掴んだ。隣にいる母親の身体も揺れたように見えた。  ――どうしてこんなことに!  左側から鼓膜を劈くような金切り声が聞こえた瞬間、迅は自分の頭の中で何かがぶち切れる音を聞いた。  ――おまえがこんな身体に生んだんだっ!  長引く不調と不安、そして聞かされた受け入れがたい検査結果。  迅も母親も、平常心を失っていた。疾風の如き速さで立ち上がった父親が医師の前であることを忘れて迅の頬を打ち、父子は悪口雑言を浴びせ合いながら乱闘を繰り広げ、賀茂川家は崩壊した。 「……先生が、フォークという身の上であることは判りました。それで……あ」  何らかの言葉を続けようとした青葉を遮るように鳴ったのは、五時限五分前の予鈴だ。  恐る恐る開いたその唇から安堵にも似た吐息が落ちるのを聞きながら、迅は舌先に残る甘さとは正反対の苦い気持ちを飲み込んだ。 「俺はフォークだ。そして、あんたは」 「ま、待ってくださいっ」  不安と恐怖にまみれた制止が、意識するよりも早く青葉の口をついた。迅を見上げる琥珀色の瞳は困惑に濡れている。 「明日も、ここへ来てくれるか」  仕方のないことだと思いながらも、胸を焼く焦燥を迅は止められない。  ぽつ、と。  ふたりの間に落ちた雨の最初の一粒が、コンクリートに黒いシミを作った。
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