1 蒼穹の下の迷宮

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1 蒼穹の下の迷宮

 ――もう、どこへも行けない。  四時限目終了のチャイムと同時にチョークを置いて、教卓に広げたテキストを閉じながら、賀茂川迅(かもがわじん)は日直の号令に合わせて三十人の生徒に目礼をした。  教科書に掲載された芥川龍之介の顔に落書きを施し、『羅生門』を理解しない高校一年生はまだまだ子どもだ。授業から解放された女子生徒たちは机を寄せ合って鞄から弁当箱を取り出し、男子は競い合って売店や食堂へと駆け出してゆく。  自身の高校時代と変わらぬ光景を見ながら教壇を降りる迅は、まもなく二十七の年を迎えようとしている現国教師だ。  そう在りたいと望んで就いた仕事、しかも職場は名門私学。身に余る収入と円満な人間関係を得て、生活には何ら不満はない。  ――ただひとつ、昼休みという時間を除いては。 「賀茂セン、お昼何?」 「売店のおにぎりかなぁ」 「侘しいっ」  教室を出ようとしたところで女子生徒のグループに捕まり、無駄に足を止められた。  賀茂川先生を縮めて賀茂セン。昔も今も、教師のあだ名の付け方は変わらない。  きゃはは、と喧しい声を上げる彼女らに、うるせぇと言い返せたらどれだけ気が晴れることだろう。だが、立場上、無理な話だ。  今後こそ廊下へ出た迅の足は校舎一階の売店へは向かず、三階へ続く階段を上った。  更に上がり、屋上へ続く扉に指を掛けて重い金属製のそれを押し開ける。薄暗い空間に直線的な陽射しが差し込み、やがてコンクリート製の床とフェンスの向こうに五月の蒼穹が現れた。 「……は」  出てきたばかりの扉に背を預けてスラックスの尻ポケットから小箱を取り出し、そのまま陽光に熱された床に座り込む。箱の開け口に指を押し込んでブロック状の菓子の入った小袋をひとつ引き出した瞬間、不意に誰かの気配を感じた。 「……あ」  屋上のほぼ中央に位置する階段室の入口に腰を下ろした迅と、グラウンドを見下ろせるフェンスの前に座った人物の視線が正面から絡み合う。先に声を上げたのは相手の方だ。 「え、と。賀茂川先生、ですよね。一年生の現国担当の。僕のことは判りますか」  色の薄い髪を風に晒し、歩み寄ってくるのは生徒ではない。新学期初日の始業式で新任教師として壇上で紹介された青年の名は、迅の記憶にも新しかった。 「四條青葉(しじょうあおば)、センセイ」 「はい」  先生、と発音する迅の声が若干ぎこちなくなったのは、四條青葉が新卒採用の新人教師で年下だからだ。高校生と見紛うほど幼くはないが、まだ新しいスーツ姿は高校教師と言い切るには美しすぎた。 「それ、飲み物がないと食べづらくないですか。というか、昼食はそれだけですか」  女性的ではないが男性というにもやや高めのさらりとした声で、青葉が問うたのは迅が手にした栄養補助食品だった。  黄色い箱の中に、二本入りの菓子が入った小袋がふたつ。因みにチョコレート味だ。 「よかったら、あげます」  かさかさと鳴るコンビニのレジ袋を開け、二本のペットボトルのうち一本を迅に差し出して青葉が笑んだ。穏やかな空気を醸す同僚に親しみを感じた迅の手が、ごく自然にそれを受け取る。ひんやりと気持ちのよい感触のボトルの中で、ミネラルウォーターが光りながら揺れた。 「賀茂川先生はいつもここで昼食を? おひとりで?」 「まぁ、概ね。そっちは」 「僕は……」  何を思ってか、ぞんざいに訊いた迅に青葉は苦笑を返した。日に焼けていない頬に癖のない髪が音もなく流れ、迅の目と意識を引き寄せる。 「女の子のパワーに圧倒されて息苦しくなってしまった、といったところでしょうか。もう五月も半ばだというのに、慣れなくて」 「あぁ。それは判る」 「賀茂川先生も?」 「何年経っても慣れない」  意外そうに目を見開いた青葉に、迅が返した言葉は嘘ではない。 「……けほっ」  ついうっかり指先で取り出した菓子を口に含んだ刹那、迅は眉間に深く皺を寄せ、片手で顔の下半分を覆った。  他者と過ごす昼休みは久々で、隣へ座った青葉を気の合う友人と錯覚したのがいけなかったのだろう。  口中で崩れる小麦粉を主成分とした焼き菓子に、砂のイメージが重なる。十代半ばまでは感じられていたチョコレートの味を思い出そうと試みるが、脳も舌も一片の甘味さえ拾わない。 「賀茂川先生?」  迅の大きな掌が貰ったばかりのボトルの蓋を乱暴に開け、冷えた液体を咽喉へと流し込む。  快も不快も伝えることのない怖ろしいほど無味な物質を嚥下する迅を、青葉が心配そうに小さく呼んだ。 「やっぱり咽喉に詰まりました?」  大丈夫ですか、と問いながら、ほっそりとした手を上げて青葉が迅の背を擦る。ふわりと漂った甘い香りは何に因るものか、迅の体内に一瞬だけ奇妙な懐かしさを巡らせた。 「見苦しいところを見せてすまない。俺は味覚障害なんだ。食べ物の味を一切感じ取れない」 「一……切?」 「そう、一切。全ての食品が無味無臭だ」  どうしてこんなことに、と耳の奥に響いた母親の金切り声は、迅が味覚を失った少年の日の苦い思い出だ。  数度咳き込んだ迅が正常に話し始めたことに安堵の表情を見せたのも束の間、青葉の顔がまた曇った。 「だからいつもひとりで、ここで昼食を?」 「あぁ」  当然の反応だよな、と迅の胸中にも落胆が湧き上がる。次に青葉が口にする言葉はきっと、見当違いの慰めや励ましだ。  ストレスや軽微な不調による一時的な症状だろう、大丈夫、治ると信じよう――。  真実を知らぬ者たちの悪気のない無駄な気遣いは迅を疲弊させるだけだったが、慣れてしまえばどうということもない。目の前の青葉から与えられるのであろうそれを予感して、迅は防御のために密やかに呼吸を止めた。 「……だったら、なおさら」  しかし、口元に自嘲の笑みを刻みかけた迅の右側から発された呟きは、それらのどれとも違う。濃紺のスラックスの膝先で一度だけ強く握られた青葉の右手が次の瞬間、迅の手首をそっと掴んだ。 「もっと飲み込みやすいものを摂ったらいかがです? こういうの、どうですか」 「……は?」  想定外の問い掛けに、迅の目が丸くなる。反射で開いた掌に触れる、冷たいパッケージ。青葉の足元に置かれたレジ袋から取り出されたそれは、迅もよく知るゼリー飲料だ。 「これはあんたの昼メシだろう」 「そのつもりだったのですけど、お近づきの印に交換ということで」 「はぁっ? いや、そっちこそ、これしか食わねぇのか」  どれだけ小食だ、と言いかけて、ふと迅は別のことを思った。もしや彼も自分と同類なのではないか、と。そうだとしたら、多少なりとも救われるような気がする――と。 「朝晩は普通に食べられますよ。でも、学校だとどうしても生徒たちにエネルギーを吸い取られて食欲が落ちるといいますか」 「……へぇ」  だが、期待は呆気なく裏切られた。 「なので、僕のことはお気になさらず」  言うが早いか、迅の手を離れて床に落ちていた小箱を青葉が拾う。そのまま一寸の躊躇もなく白い指で茶色い固形物を摘まみ上げ、迅の食べかけのそれを口へと放り込んで咀嚼すると、味覚障害を告白した迅への気遣いか味の感想を言うことはせずに唇に付いた粉を指先で払った。 「……あんた、変な奴だと言われないか」 「大人社会で面と向かってそんなことを言う人がいますか。まぁ、自覚はありますが」 「あるのか」 「えぇ」  頷いて、食事と呼ぶほど上等ではない食事を再開する青葉を、迅はしげしげと眺めた。  光に透ける琥珀色の髪と、同色の瞳。優しげに整った面差しは、ほのかに少年の雰囲気を残している。男として完成しきっていない細い体躯を包む純白のワイシャツの胸元で風に煽られたネクタイが翻り、先ほども感じられた甘い香りがまた漂った。 「……っ」  どく、と皮膚の下で心臓が大きく波打った瞬間、迅の視線は一秒にも満たぬ速さで青葉を捕縛した。  嗅覚を刺激して止まない甘く芳醇な芳香は決して香水や柔軟剤などではなく、青葉自身から発されている。それを感知できるのは、迅が味覚を持たぬ者だからだ。  ――こいつは。  数年ぶりの強烈な空腹と食欲に捉われた胃が捩れるような痛みを訴えながら、青葉を欲しているのが判る。味を、とりわけ甘味を渇望する脳と消化器官に激しい焦燥を煽られ、迅は青葉から目を離せない。口中に溜まった唾液を飲み込む音が、鼓膜の内側で生々しく鳴った。 「……四條……」  歯列の隙間から零れた、己のものとは思えぬほどに低く苦しげな声を迅は聞く。 「はい?」 「いや……」  呼びかけの続きを追うように見上げてくる顔のあどけなさに、生徒みたいだと短く思惟し、迅はなけなしの理性を振り絞って伸びかけた指を握り締めた。  駄目だ。ここは職場で、こいつは同僚だ。  強く自身に言い聞かせると同時に、五時限開始五分前のチャイムが校内に鳴り響いた。  教師という立場を思い出した迅は大きく息を吐きながら額の汗を拭い、青葉もレジ袋を手にして立ち上がる。 「じゃあ、な」 「ぁの、賀茂川先……」  階段室の扉を開け、迅がするりと校舎の中へ長身を滑り込ませる。言いかけた言葉を聞こうとせずに階段を駆け下りる広い背を、置き去りにされた青葉が視線だけで追いかけた。 「四條、青葉」  爽涼な名を奥歯で噛み潰すように呟き、空の青を纏って立つ清潔すぎる青年の姿を脳裏に返す迅の鼓動は平素よりも大分速い。 「奴は……だ」  階段を一歩下りるごとに、記憶が過去へと遡る。  迅が味覚を失ったのは、中学校の卒業式から半月少々が経った三月末の雨の晩だった。  過去に大病を患ったことはなく、その日でさえ体調には何の変化もなかったというのに、夕食のハンバーグの味を感じることができなくなっていた。  それだけならば、料理の苦手な母親が調味料を入れ忘れたと思うことができたかもしれない。が、スープもパンも、サラダにかけたドレッシングの塩分までもが迅の舌にその存在を伝えてはこなかった。  ――賀茂川迅さんは、フォークであることが判明いたしました。  医療機関をいくつか受診し、最後に辿り着いた大学病院で、迅は意味の判らぬ単語を聞いた。両親は納得せず、再度、別の病院へ迅を連れて行った。  ――どうしてこんなことに!  再検査の結果を聞かされて、母親は医師?の前であることも忘れて泣き崩れた。  診察室とは別の小部屋で、数人の医師と両親、迅は長机を挟んで向かい合っていた。  どうか大学病院での検査結果が覆されるようにと願っていたのは迅も同じで、何らかの病による一過性の症状ならばいいと祈ってさえいたというのに、診断は変わらなかった。  ――この世には、フォークとケーキと呼ばれる者とそれ以外の人間がいます。フォークはケーキを捕食する者です。ケーキは血肉は勿論、体液までもが甘味に満ちて、唯一、フォークに味を感じさせてくれる存在です。  ――捕食……って。  ――物理的に、というのは抵抗があるでしょう。味を欲するのならば、性行為だけでも構いません。  ――せ……。  その三文字は、中学生以上高校生未満の半端な季節に立つ迅には刺激が強すぎた、というよりも全く想像のつかない行いだった。  どちらにせよ、つい先日まで人間であったはずの自分はフォークという化け物に変化して、ケーキ側に分類される人間を喰らわなければ食事に楽しみを見出せないのだと宣告されたことに違いはなかった。生涯スポンジと砂とゴムの感触のするものを一日に三度、無理やり咀嚼し、嚥下することを繰り返すのは苦痛、いや、地獄としか思えない。  ――ケーキは自身がケーキであると気づいてはいませんが、フォーク側からは一目瞭然です。  ――自分がフォークから理不尽な行いを受ける理由を知らない、ということですか。  ――それが両者の関係性なので。フォークから説明し、合意を得るという方法もありますが。 「他人事みてぇに言いやがって」  既にうろ覚えになってしまった記憶の底の医師に毒づいて、迅は職員室の引き戸を開けた。何十人もの教師や職員のいる部屋に、ケーキと呼ばれる人物はいなかった。出逢ってしまったときに自分がどうなるのかと、想像したこともない。「食事」に関する悩みを除けば、迅の世界は静穏に満たされていたからだ。 「独り言ですか、賀茂川先生」  すれ違いざま朗らかに笑んだのは、図書室付きの男性司書だ。同性の迅から見ても、俳優並みの美形で性格も好ましい。が、恋愛感情や肉体関係を視野に入れて彼を見たことは一度もない。  指を伸ばしかけた相手は後にも先にも、四條青葉ただひとりきりだった。  生きるためという大義名分でしか飲食に意味を見出せなくなったフォークに唯一、味を感じさせるというケーキ。  だが、突如目の前に現れたそれはあまりに無垢で、純白の生クリームと苺で飾られた洋菓子としてのケーキを彷彿とさせられるせいか、味わいたいと思う反面、穢すのが酷く惜しい気がした。
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